幸せな釣果

西久保 隆


ザッツ・オーライ。全てが順調だ。

南東の風15ノット、快晴、波高1.5メートル、気温21度、湿度60%。10秒間隔の北西からのうねりが、ゆるやかに艇を上下させる。

海は輝くようなプルシャンブルー。手を入れると本当に染まりそうな藍色。 時折うねりとぶつかって波が白く砕ける。そのコントラストがとてもシャープな彩りだ。

僕は白い短パンに紺のコットンセーター。ちょっと寒いが気分は爽快。コックピットのベンチにデッキシューズを履いた足を投げ出し、パイプを燻らせながら力ポーティのぺーパーバックを読んでいる。傍らにはコーヒーの黄色いマグ。思い出したようにかすかなスプレーが降りかかる。

キャビンのナビゲーションテーブルにセットした時計がログデータを記録する時間を告げている。僕は読みかけのぺージをベンチにふせて立ち上がる。艇のぐるり一周を眺め、いつもの癖で何事もなしとコンパニオンウェイに足を運ぶ。あれ?ウエーキで何かが光っていたんじゃないか?

僕は後ろを振り返る。そうだ、トローリングのラインを流していたっけ。20メートル後方で、また何かが光った。艇のクリー卜に引っかけた糸巻きを手に取る。物凄い手応えが伝わる。大物がかかったようだ。

僕はセールの風を逃がし艇を止め、慎重にラインを手繰る。引き寄せるどころかラインがどんどん引き出される。しばらくは綱引きみたいなことをやっていた。ある漁師の言葉が記憶の中に蘇る。「でかい獲物は元気なうちは放っておけ。相手が疲れるまで待って、それから取り込まなきや、おめえ、簡単に上がるもんじゃねえ。」

ラインが緩まない程度に獲物を自由に泳がせる。横に走り、反転してまた横に走る。遠くへ逃げようとする時は、できるだけ力をかけてラインを出してやる。魚は苦しまぎれにジャンプし、今度は深く潜水する。ヘミングウェイの「老人と海」で読んだけど、ジャンプした魚は肺に空気が溜まっていていつまでも深みにはいられないのだそうだ。

やがて獲物は艇のすぐ近くに浮上し海面を突き抜ける。華やかに空中に飛ぶカジキ。勿論サンチャゴがしとめたように大きくはないが、それでもまぎれもないカジキ。美しく瑠璃色に光る丸く太い胴と威嚇するように拡げた背びれ。僕はただ呆然とした。

冷静に見れば、2メートル足らずの小振りな奴だ。それでも、動作にはカジキならではの威厳がある。時折、僕を観察するように艇に近寄り、そして海面に体を打ちつけて反転する。

僕は航海日誌のログデータも採らぬまま、カジキとの真剣なやり取りを2時間も続けていた。その頃になると、カジキは目に見えて疲れてきた。動作に俊敏さがなくなった。しかし、僕だって本当に疲れてしまった。そして、ラインを通して何か連帯感みたいなものが生まれてきた。僕は声に出して魚に呼びかける。「お前も随分がんばるじゃないか。でも、お前ばかりか俺も本当に疲れてしまったよ。どうフィニッシュするか知らないが、そろそろ終わりにしたいものだ。お前はどう考えているんだい?」

カジキはゆっくりと艇の下を潜った。ラインがキールやラダーやプロベラシャフトに絡まなければいいのだが。浮上すると、ぐるぐるとあまり大きくない円を描いて回りだす。僕は力いっぱいラインを引く。奴はごろりと横になった。しめた!これでファイトは終わりだ。

でも、どうすればこ奴を艇に引き上げられるのだろう。そして、どう料理しようというのだ?僕は目の下まで引き寄せたカジキをサイドデッキから見下ろして思案に暮れた。

ナイフのような右の胸びれをそびやかし、カジキは静かに横たわっている。ラインをクリートに止め、僕は左舷に並行した奴の姿を眺める。疑似餌を口の端にくわえ、カジキは時折ブルルと痙攣する。長い槍のような蟻、扇のような瑠璃色の背びれ、そして丸く瞬きしない目。あきらめと悲しさと優しさを湛えた目。僕はその目を覗き込む。そして、僕はとんでもない間違いを犯してしまったことに気づく。

その目には、晴れ渡った青空といつの間にか流れてきたちぎれ雲と僕が映っていた。 デッキに腹這いになると手を延ばし、僕は疑似餌にひそんだ針を探った。水面までが遠く、僕は艇外に大きく体を出さなければならなかった。やっとそれに手がとどき、そっと針先と反対の方向に引いてみた。外れる感触はなかった。僕は半ば絶望的な気分で針を握っていると、突然カジキが身を反らした。あたかも、敵に情けを受けることを拒むかのように。尾で激しく水を打ち、鰭が僕の顔を掠めた。焼けるような痛みが走り、同時に指先が急に軽くなった。針と疑似餌だけが僕の手に残り、カジキの姿は消えていた。

水面に僕の額から滴る血が円を描いた。波がすぐにかき消し、また血が滴る。僕はとても幸せだった。

「そうだ、ログブックにデータを書き込まなければ」

僕はゆっくり立ち上がると、コンパニオンウェイのステップを降りナビゲーションテープルに向かった。

June 10, 1995


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