インディオの女

やっと夕闇が兆す頃、僕は街へ出てみた。

ウォーフ・ストリートを右へ進むとインナーハーバーがあって、その正面には州議会議事堂が聳えている。議事堂は威厳に充ちた古い石造りの建物で、その輪郭がイルミネーションに飾られ、まるで夢のように壮麗だった。インナーハーバーの最奥には瀟洒なマリーナがあり、その突き当たりの海に向かって傾斜した芝生には、〈WELCOME TO VICTORIA〉と白く書き抜かれていた。

州議会議事堂の手前には、世界的に名の知れたエンプレス・ホテルが、中世のお城のような威風を誇っている。それらは、広々とした公園の芝生と色とりどりの花々で隔てられ、絶妙なハーモニーを醸していた。ビクトリアは、自らに冠したガーデン・シティという言葉に相応しく、街全体が箱庭のように美しい。その街を、夕暮れの散策を楽しむ人々が三々五々そぞろ歩く様は、まるでロマンチックな物語の情景を眺めるようだった。

エンプレス・ホテルから議事堂の方へ回る辺りに人垣が出来ていた。近づくにつれ、哀調を帯びたインディオの音楽が流れてきた。

覗いて見ると、五人ばかりのインディオが演奏をしている。ギターや太鼓やオカリナや竪琴、そして、竹を音階順に並べた笛などで構成された旅回りのバンドだった。時折、彼らの前に広げられたギターの空のケースに、聴衆がコインを投げ込んでいった。

人垣の輪の中を、彼等の演奏を録音したカセットテープとCDを売り歩く若い女がいた。真っ黒な髪を後ろで一つに編み込んでいるその顔は、ちょっと見には日本人のようにも見えた。僕は、その女の、行き暮れたような虚ろな風姿に胸を衝かれた。

彼女が僕の前に差し掛かると、僕は、躊躇うことなくカセットテープを買った。そして僕は、特別の思いを込めて彼女の目を見つめた。彼女は、はじめその強い視線に驚いたようだった。でも、僕の目の中にひそむ愛しみの感情を敏感に感じ取って、もの問いた気に僕の目を見返した。

それはほんの数秒のことだった。それでも僕らは、互いに見つめ合う視線の中で、凄くたくさんのことを語り合ったと思う。

やがて、彼女は、カセットテープとCDを掲げながら向うへ行ってしまった。

**

翌日は凄く忙しかった。

船具屋へ行って、ガルフ・アイランズ(バンクーヴァー島と本土の間の多島水域)のクルージング・ガイドや船具を買ったり、電気屋でコードを探したり、郵便局へ行って、航海中に書いた膨大な量の手紙を発送したり、スーパーマーケットへ行って、新鮮な食品を買い漁ったり・・・。

マリーナへ帰る道筋、エンプレス・ホテルの前に差し掛った。向う側で、誰かが僕を見つめていた。僕は、その視線の優しさに覚えがあった。昨夜のインディオの女だった。

「あなた、夕べテープを買ってくれた人・・・」と、彼女はスペイン語訛りの英語でいった。

「そう。覚えていてくれたんだね」

「覚えていたわ。昨日、あなたは私をじっと見つめた。だから、夜、あなたの夢を見た」女がいった。

「それは光栄だ。時間があったら、お茶でもいっしょにどうだろう?」

「Why not?(いいわ)」そういって、僕らは、エンプレス・ホテルのロビーへ入って行った。

丁度、『デス・オヴ・ザ・チョコレィト(チョコレィトの食い倒れ)』というイギリスの伝統的なイヴェントをやっていたので、僕らは、そのコーナーに席を見つけて座った。僕らはダージェリンをオーダーした。そして、ウエイターが、彼女の指差す何種類ものチョコレィトを、お皿に積み上げてくれた。

「こんな豪華なホテル、初めて。何だか緊張しちゃう。あなたは?」

「僕もさ。でも、ホテルで緊張してもはじまらないよ。楽しまなくちゃネ。ところで、僕はzen。昨日ヨットで着いたばかり。今は、ウォーフ・ストリート・フロートというマリーナに碇泊している。ヨットの名前も[禅]というんだ。きみの名前は?」

「私はカチェリーナ。メキシコ人だけど、父も母もインディオよ。もっとも、純粋なインディオなんか、もうほとんどいないけど。あなたはチャイニーズ、それともジャパニーズ?」

「日本人だ。僕は、はじめてきみを見た時、日本人かと思ったよ」

「そう。私、日本に憧れているの。みんなお金持ちだし、お洒落だし、素敵な車やテレビやステレオなんかがあって、それに、世界中のエンターテイメントが東京に集まって来るし・・・。東京へ行ってそういう贅沢をしてみるのが私の夢なの。でも、私たちって貧乏だから、夢はやっぱり夢に過ぎないけど」

「そんなことはない。頑張れば、夢はいつか叶うものさ」

「ねえ、東京のこと、何でもいいから話して」僕は、東京や日本のことを思いつくままに話した。カチェリーナは、じっと聞きながら、次々とチョコレィトを食べた。

「きみは、チョコが好きだね」

「女の子って、誰だってチョコが好きよ。それに、こんなに美味しいチョコ、食べたことないもの」

「いくらでもお上がり。でも、太っても知らないよ」彼女は、フ、フ、フと笑って、また次の一つを頬張った。

僕らは、そんな他愛もないことを話していた。そうしたら、カチェリーナが急に僕の話を遮って、

「ねえ、zen。夕べ、どうしてあんなシリアスな目で私を見つめたの?」と尋ねた。僕は、その唐突な質問に戸惑った。

「どうしてだろう。僕にもよく分らない。でも、きみを見ているうちに、人間の寂しさという思いが浮かんできたのだと思う。

僕は、五十三日間も一人で太平洋を航海し続けてここへ辿り着いた。航海中は感じる余裕もなかったけど、周囲をたくさんの人に囲まれている今、僕は、決して埋めることの出来ない本質的な人間の寂しさをというものを感じている。或る人はそれを孤独という。でも、その言葉では十分じゃない。もっと弧絶した根源的なもの・・・。その同質性を、僕はきみの中に見たのかも知れない」

「そう・・・」彼女は、しばらく物思いに耽るように沈黙した。そして、ポツリといった。

「夕べの夢の中で、あなた、同じこといったわ」

僕らは、もう一杯紅茶をお代わりした。そして、僕らはもう、あまり言葉を交わさなかった。その沈黙の中を、諦めに似た思いだけが積もっていった。

***

夕食を終え、僕はキャビンでうたた寝をしていた。そうしたら、誰かがデッキをノックした。夢うつつでいると、もう一度ノックが聞こえた。そして、「Zen」と呼ぶカチェリーナの声を聞いた。僕は慌ててハッチを開けながら時計を見た。午前二時だった。

カチェリーナが影のように立っていた。少し酔っているのか、体が揺れていた。僕は、手を伸ばして彼女の手をとった。引き上げるままに、彼女は軽々とデッキに上がってきて、崩れるように僕の胸に顔を埋めた。

彼女は震えていた。そして、声もなく泣いているようだった。訳は尋ねなかった。僕らは互いの体を抱くようにしてキャビンへ降りた。

「お酒、ある?」と彼女がいった。僕は、グラスにウイスキーを注ぎ、それを水で割ろうとした。彼女は、

「そのままでいい・・・」といって、生のウイスキーを口へ運んだ。一口飲んで、彼女は大きく溜息をついた。そして、僕をじっと見つめていった。

「あれからずーっと、私、Zenが話したことばかり考えていたわ。でも、私にはよく分らない。それが私にとって、とても大切なことなんだと思えるし、誰かが、私の心の中で、ほら、そこに・・・といっているのに、それが何なのか分らない。気がついたら、ここに来て[禅]を探していた。Zen、一体、私の中で何が起こったの?」最後は、消え入るようにいって、彼女は、ふたたび僕の腕の中へ崩れてきた。

僕は、彼女の顔を仰向かせ、その目を覗き込んだ。焦点が定かでない目が潤んでいた。そして、僕らは唇を重ねた。しかし、彼女は全然酒臭くなかった。ドラッグをやっているのだろうかと思った。しかし、彼女を見ていると、もう、そんなことはどうでもよかった。彼女に対する愛しさだけが僕の心を包んでいた。恐らく、僕に話したことなんかより、もっともっと辛いしがらみが、彼女の若い人生を蝕んでいるに違いない。

「どうすれば、きみの心を癒すことが出来るのだろう?」彼女の耳元でそう囁くと、彼女は微かに首を振った。あたかも、そんなことは誰にも出来ないというかのように。

「横にさせて・・・」気だるそうにカチェリーナがいった。僕は、彼女をスターンの広いバースへ寝かせた。疲れ果てた体を癒すように、ぐったりと彼女は横たわっていた。眠ったのかと見えた彼女が、やがてこちらに寝返りを打つと、目で語りかけた。「Zen、ここに来て・・・」と。

僕は彼女の脇に体を横たえた。そして、カチェリーナの体を、力いっぱい抱きしめた。その腕の中で、彼女は泣いていた。何だか、僕なんかが到底入り込めない心の深みで泣いているという感じだった。

僕は、彼女の背を優しく愛撫した。暫くすると、彼女の嗚咽は潮が引くように収まっていった。僕らはそのまま眠ってしまった。とても深く、安らかな眠りだった。

ポートライトから差し込む懐中電灯の光で目が醒めた。僕の横で眠っていたカチェリーナがいなかった。そして、ヨットの外から、

「Zen、何か異常はありませんか?」というジョンの声を聞いた。

僕はバースを抜けるとハッチを開け、

「異常はないョ」と答えた。そして、どうしてこんな時間にジョンが見回りに歩き、しかも、僕に声まで掛けていったのだろうと不思議だった。マリーナで、何か異常なことが起きたのだろうか。

それにしても、カチェリーナはどうしたのだろう。僕の目を覚まさず、どうやってバースを抜け出したのだろう。キャビンへ戻ると、僕は、フォクスルやヘッドを、彼女の名を呼びながら探し回った。狭いヨットの中で、他に彼女が潜むような場所なんてない。さらに、ヨットを出てドックも歩いてみた。それでも彼女の姿はどこにもなかった。僕は夢を見たのだろうか・・・。

もうすぐ夜が明けようとしていた。僕はその夜、不思議な思いのまま眠った。

翌日、この辺りで麻薬がらみの事件があったことを知った。ジョンが見回りしていたのも、多分そのためだったのだろう。そして、事件にカチェリーナが絡んでいたかどうかは知らないし、また、僕は、知りたくもなかった。勿論、あの夜、彼女が僕のヨットに来たことは、誰にも話していない。

後日、バンクーヴァーでインディオのバンドの演奏に出会った。街角でたくさんの人が彼等の音楽に聞き入っていた。しかし、テープやCDを売り歩く彼女の視線を捉えることは出来なかった。彼女は、何も見ていなかった。或いは、この世の外のさらに向うを見ているような目をしていた。彼女が僕の前へ来た時、「カチェリーナ・・・」と小声で呼んでみた。彼女がちらりと僕の方を見た。しかし、その視線からは、カチェリーナが僕を覚えている様子を伺うことは出来なかった。

[完]


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