8月11日(金)/曇・31℃

暑い日が続いています。
台風が頻発する8月とはいえ、7号・8号・9号が一度に日本近海を襲うというのも珍しいことでした。
9号は台湾から大陸へ、8号は沖縄・奄美地方で猛威をふるい、7号は東海地方に接近し関東をかすめて三陸へ抜けて行きました。幸い、甚大な被害はなかったようですが、地球全体が狂ってきている証しとして、この連鎖的な台風の発生は不気味です。
そして、台風一過、昨日は関東内陸部で39.1℃という殺人的な気温を記録しました。暑さのせいか、ホントに馬鹿げた事件があちこちで続発しています。人間が地球を壊し、為に地球が狂い、その現象に人間共が狂う・・・何だか、荒廃した人心が潤いもない不毛の風景を繰り広げているとしか思えません。
そんな中、私はなす術もないこの暑さを、ひたすら怠惰にゴロゴロと非生産的に暮らしています。怠惰のお相手は、読書。本だって、最近は恐ろしく高価ですから、常に新刊を読むわけにもゆかず、書棚に並ぶ見慣れた書籍を、繰り返し繰り返し読んでいる訳です。
いま読んでいるのは、牛島龍介氏の『貿易風の旅人』です。
この本は、昭和58年に購入したもので、私に航海を決意させる要因の一部にもなった本です。実際、航海中は何度も繰り返し読みましたが、帰国後も含め、もうその回数は数え切れないほどです。
『貿易風の旅人』はどんな内容の本かというと、牛島氏がメキシコのエンセナダからヨットで太平洋を横断して日本に帰国するまでの航海を散文的に描いたものです。
牛島氏について、少々説明します。氏は、堀江謙一氏に次いで1969年に太平洋(福岡~オークランド)を単独横断し、翌1970年、メキシコのエンセナダから日本へ航海して日本人初の往復横断を達成しました。この本は、その時の様々を、実に洗練された筆致で描いたものです。
氏はさらに、73年には単独世界一周を、77年には、仲間と大西洋横断なども果たしたという、日本のヨット界の先駆的人物の一人といえます。
私は、牛島氏のこの著書を、洗練された筆致とか散文的な文章と書きましたが、正に、この本は航海を描きながら航海記ではないのです。どちらかといえば、航海に身をおいた者の随想とでもいえばいいのでしょうか、ヨットの航海技術や、ややこしいヨットの部分名称や構造やパーツなどには触れていません。或いは、少なくとも、それらをこの著述の主題としてはいないのです。そういう意味で、これは航海記ではなく、またそういう意味で、私の『その先の海』と相通じるものがあり、どういう風に通じ合うのか、それをはっきりさせたいと、もう何十回目かの読み返しをしているところです。
牛島氏は、水先案内となる航路誌もない航海を「冒険」とは考えていません。いや、むしろ冒険という考え方を真っ向から否定してさえいます。そして、自らの幼い頃からの屈折した思い出と対比させながら、その延長線上の「家出」、または「無分別で不条理な衝動的行為」と位置づけています。
エンセナダに碇泊するヨットで、金の無心の手紙を書いていると、何事にもすぐに感動し興奮しやすいアメリカ人旅行者が牛島氏に声を掛けます。そして、旅行者は「ヒーローに会ったのは初めてだ」と感激します。しかし、牛島氏は「僕はヒーローじゃない」と否定します。しかし、旅行者はそれに取り合わず、書いている借金の手紙を航海記を書いていると早合点し、そのページを20ドルで売って欲しいというのです。もともと、食べることにも事欠き、借金を嘆願する手紙を書いている状態です。牛島氏は、躊躇うことなく、旅行者の感激を損なうことなく作家になりすまして書きかけの手紙と引き換えに20ドルをせしめます。
氏の視線は常に屈折し、ものごとを斜めから皮肉に眺めます。食うや食わずのさ中に得た20ドルは、その半分をどうしようもなく怠惰なメキシコ人の友人に貸してしまいます。勿論、返って来る当てなんか微塵もありません。その日の夜、その友人が酔いつぶれているのを見ます。金が当初の計画である職探しに使われず酒に変わってしまおうとも彼は関知しません。終いには、正体なく酔いつぶれる友人を家まで送り、ベッドに寝かせます。ささくれた気分で友人の家を出ようとすると、家主が、「キミが彼に提供した金は私が預かっている。彼は明日早朝、バスで街に仕事を探しに行くだろう」といって、10ドル札をヒラヒラと振って見せます。牛島氏は、当然ながらホッとしたことでしょうが、本質的なところではそれにさえ関知せず、無感動に夜道を歩み去ります。
航海に気象の激しい変化はつきものです。ひどい嵐、それに、まるで拷問のように何日も続く凪・・・こうした状況の中で、子供の頃、家出に失敗して汽車賃を送ってもい、一人夜行列車で家へ帰ったことを思い出します。街の灯が車窓を過ぎ、前の座席には一人の老婆が膝を曲げて座っています。老婆の目は空洞のように虚ろで、通り過ぎる街の灯を潤いもないその洞に吸い取って行くのです。この歳まで、一人で旅をしたことのない不安がありありとうかがえ、彼は、心の内で、この老婆が無事目的地に着くことを祈ります。しかし、互いに一言も言葉を交わしません。夢中になって喋りたいことが山ほどあるのに。一人で旅を目論んだ顛末、森の中に作ろうとした丸太小屋のこと、最近死んだ祖父の幽霊を見たこと、一生、クマだけを相手に猟師の暮らしをする計画・・・人なつかしさの温かい気持ちの中で、子供のくせに、狡猾に、他人の苦しみを受け取りたくないという打算があるのです。彼が口火を切れば、老婆も胸の苦悶を押し付けてくるでしょう。その危険を無意識のうちに避けて、老婆の孤独にのみ込まれまいと必死に目を伏せていた・・・・・・と、牛島氏は書いています。
そして、航海について、「望んだ場所に来ているのに、いつも逃げ出す意識ばかり持っている。これでは何のためにきたのだろう。キャビンに閉じこもったまま、海など見たくもないと思っている。勝手に一人で出てきたのだから恨む人間も、八つ当たりする相手もないはずだろう・・・」と、航海の追い詰められた局面での苦しい自問が繰り返されます。これは、全ての航海者が全航程に引きずって行く想念で、当然ながら私もイヤというほどこの自問に悩みました。「何のために・・・」という問いほど、航海というものに不似合いであり、しかも縁の深いものもありません。
しかし、よく考えてみると、要するに死の恐怖と常に背中合わせでいることの緊張感と、その持って行き場のない絶望感が自問の正体なのです。そうすると、今度は、開き直って死そのものに思いを致します。
牛島氏は、「子供の頃、風呂の中で足をすべらせて仰向けになり、湯の中で息が詰まったのと同じことが起きるだけだろう。水をのんでも、せいぜいバケツ一杯くらいの水だろう。とすると、何も太平洋だからといって格別苦しむこともない。大洋を胃に飲み込みながら死んでいくわけじゃない。死ぬ身にとっては風呂も海も同質のものだ」といい、「ダメと分かったら、息をつめてこちらから海にもぐり込んでやれ。死とは、結局は死ぬだけのことではないか。僕は死ぬことは怖くはないが、自分が死ぬ存在であると考えることが恐ろしいのだ」と開き直ります。さらに、「三歳の幼児だって海で死ぬことは、いともたやすい。僕は生きるためにこそ、ここに来ている。そう考えながらも、どうしても動かし難い想念は心にしこったまま残った」と述懐しています。
僕は、出航の真際、取材者が怖くはないのか?と尋ねた時、「最悪でも死ぬだけじゃないですか。それ以上の刑罰が下される訳じゃない」と答えました。ヨット界の大先達と並べることは不遜ですが、同じ海に出れば、誰もが同じ想いに苛まれるものなんだという、ヘンに納得したような安心感をこの『貿易風の旅人』は私に与えてくれています。

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8月3日(木)/晴・29℃

湘南地方にも、やっと夏らしい夏が訪れました。
まだ、オホーツク高気圧が優勢で、乾いた爽やかな風が吹きぬけ、蝉の声もあの木立から降リ注ぐような蝉時雨とはいきませんが、それでも充分に夏の風情が感じられます。明日あたりから、猛暑と共に本格的な夏が到来することでしょう。
今年の梅雨明けは、例年にないパターンでした。
通常なら、梅雨前線を高温多湿の太平洋高気圧が北へ押し上げ、うだるような猛暑が梅雨明けのシグナルでしたが、今年は、オホーツク高気圧が前線を南東へ押しやって関東地方の梅雨が明けました。従って、ここ数日続いたように、湿度が低い爽やかな風を送り込み、気温も30℃を下回る夏の到来だった訳です。

梅雨明けが宣言された7月31日、江ノ島ヨットクラブの「セーラビリティー江ノ島」では、障害児にヨット体験をしていただくクルージングをしました。舟は、松本代表の所有する「みなも」という40フィートを上回るオールド・タイプのクルーザーで、いつもの二人乗りの小舟ではありません。私にとっては、ディンギーより遥かに手馴れたクルーザー・ヨットですから、朝から気持ちが弾みます。
出航の準備が整った10時頃、10数人の障害児とその保護者がやってきました。未経験なクルーズに対する尻込みがあるとはいえ、それを上回る期待感でウキウキしているのが見て取れます。こわばっていた表情も、デッキに腰をすえて暫くすると笑顔に変ってきます。
さて、いよいよ出航です。舫い綱を解き、大きな図体の「みなも」が狭い港内をゆっくり進みだすと、言葉にならない感歎の声が上がります。
マリーナを囲む堤防を出て、目の前に広々とした海原が拓けると、さっきまでの尻込みも忘れたように、子供たちは揺れるデッキを恐るおそる動き回ります。
「みなも」が安全な水域に出ると、松本代表は、「舵をとって、ヨットを動かしてみたい子はここにおいで」と、コックピットから子供たちに声を掛けます。早速、何人かが交代で舵をとりました。大きなヨットが、たくさんの人を乗せて、広い海原を自分が操る舵のとおりに右に左に方向をかえながら走ります。感動で子供たちの目が輝いています。
七里ガ浜の遥か沖を南下し、やがて鎌倉海岸沖にやって来ました。遠くの海岸に、大勢の海水浴客が豆粒のように見えます。
「目の前が逗子マリーナ、さらに先が葉山ですよ」 「左の岬は稲村ガ崎です」 「葉山のはるか先に、白いチョークのように見えるのが、裕次郎灯台ですよ」と説明すると、保護者の方々も目を見張ってクルージングの爽快感に酔っていらっしゃるようでした。

とはいうものの、私自身、オーストラリアで航海をリタイアして以来初のクルーズです。血管の中を駆け巡る潮気たっぷりの血潮が、私本来の海に対する熱い想いを突き上げます。まだまだ私の感性に見合った壮大な海とはいえませんが、それでも、「海に帰って来た!」という胸を締め付けるような感動が湧き上がってきます。今回は、舵にもセールを調整するシートにも触れず、もっぱら障害児とその保護者のお世話だけに徹しましたが、このささやかなクルーズで、私の中に、「私の海」が鮮やかに甦っていました。
帰港の途次、普通は見ることのない江ノ島の裏側(海側)に接近しました。高く切り立った崖に、龍神を祀った祠がいくつも見えます。午後になって、少し風が吹き上がってきたようです。海言葉で「ウサギが跳ぶ」といいますが、海面に波頭が崩れる白波が見えます。フル・セールに帆を揚げると、ヨットは生き返ったように走り出す風です。またいつの日か、海原を我がもの顔に疾駆することがあるだろうか・・・・・・かつて海を見据えて描いた夢が、再び私の眼前に甦るかも知れません。

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7月15日(土)/晴れ・33℃

コンピュータを離れようと椅子から立ち上がりかけて、スリッパがツルリと滑った。
フローリングには小さな水溜りがあった。それは、知らぬ間に腕を伝い肘の先から滴った汗の溜まりだった。やれやれ、この暑さは半端じゃない。
家中の窓も戸も開け放ち風を入れ、扇風機を回して多少は体感温度を下げているとはいえ、空気の温度は紛れもなく33℃だ。昨日も、熱中症で死者が出たというが、恐らく今日も同様の事故が起こっているのだろう。僅かな慰めは、その当事者が、少なくとも今現在私自身ではないということだ。
でも、他人事ではない。私も高齢者に分類される身ではあるが、体力が衰えたお年寄りには正に地獄の猛暑だ。そういうお年寄りが、身の回りには沢山いる。どうか、この異常ともいえる暑さを無事に乗り越えていただきたいと切に願う次第である。

歳をとるということは、ある意味、激しい情熱を失うことなのだろうか。
最近耳にするニュースで、心が晴れるという話は極端に少ない。何の意味もなく幼い子供を殺したり、自分の家に放火して家族を殺してしまったり、拉致問題が北朝鮮の核開発やミサイル問題に隠れて袋小路に追い込まれたり、国連の北朝鮮への制裁決議が何かの駆け引きの具になって迷走していたり、小泉がバカ乗りしてプレスリーの所作を真似て世界の失笑を買ったり(アメリカは、ああいうノリを笑いに流してしまうが、ヨーロッパでは眉をひそめ、見ぬ振りをして無視してしまう)、イスラエル/パレスチナのあまりにも愚かな混迷と泥沼、そしてジダンがW杯決勝でマセラッティを頭突きでノックアウトしたまではいいが、そうなった経緯が民族意識絡みだとか家族を侮辱する発言があったとか・・・・。もう~、いい加減にしてくれ!
何だか、みんながそれぞれ、全く別の方向を見、別のことを考えているような、或いは、意図的にそっぽを向き合っているような・・・いい方を変えれば、人がどう考えようとオレには関係ないといった人間同士の冷えびえした断絶を感じてしまう。昨今は、胸の内をかつて経験したことのない冷たい風が吹き抜ける殺伐とした時代だと思う。
そして、それらを整理して目の前に並べ、さて何から、どう手をつければ多少なりとも良い方向に向かうことが出来るのかと問いかけた時、高齢のこらえ性の無さなのか、「斯くあらねばならぬ!」という断固とした情熱も意思も湧いてこない。
若い頃は、正義感というものが押さえがたく、歯ぎしりしてその問題に取り組み、何らかの働きをせずにはいられなかったあの情熱はどこへ消えてしまったのだろう。そればかりか、そういう煩わしい問題を次々に引き起こすことそのものに、「何でそう、ものごと荒立てなきゃならんのや?」といった事無かれ主義の怠惰が先行する。歳をとって、少しは人間が丸くなってきたといういい方もあるが、激しく燃え上がらない自分を客観的に眺める時、一抹の寂しさが心を占めるのをどうすることも出来ない。
さっきまで焼き尽くすように降り注いでいた夏の太陽が黒雲に覆われ、いま、しきりと雷鳴が聞こえている。小気味良い夕立が、この灼熱の午後をひと掃きして涼風を送り込んでくれないものか。

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2006年6月29日/晴れ・30℃

買うべきか、買わざるべきか・・・・
いやいや、それほど大上段に構えるほどのことでもありません。この暑さに辟易して、昨年夏の地獄のような暑さを思い出し、クーラーを設備すべきか、せざるべきか、そんなことに頭を悩ませている訳です。
公団の中高層住宅、いわゆるコンクリート造りの西洋長屋の寒暖の激しさは言語に絶するものがあります。夜中になっても、夏の太陽の直射を受けた建物は、その熱波をオーブンのように室内に放射し、安眠なんてとても覚束ない夜が延々と続きます。

いまや、クーラーなんて、安売り屋の店先に数年前のバージョンなら5万円前後で売っています。金額的には、日常の出費を多少制御すれば、それほど大変な買い物ではないはずです。
しかし、私は、極めつけのクーラー嫌い。若い頃、交通事故で頚骨に故障を受けて以来、首筋にクーラーの冷風を受けると激しい頭痛に苦しむという傾向があります。
今を去ること数十年前、職場に冷房が設備されました。ダイキン製の大型食器棚ほどもある大そうな機械でした。サーモスタットが反応して機械が運転しだすと、まるで室内で自動車がエンジンをスタートさせたかと思わせる振動と騒音を発したものでした。
猛暑の中、あの冷風に打たれる爽快感は格別でした。従って、職場の高位者が当然のように冷房機を背負うように席を取りました。今にして思えば、まるで未開人のように滑稽な話です。しかも、外歩きの営業社員が汗を滴らせて社に戻ってくると、社屋に入っただけでヒンヤリと感じられるほど室内が冷やされていなくては満足しません。だから、冷房は常に「強」のメニューで運転していました。
そんなことが数年続いて、冷房機の前に陣取る役職者たちは、次第に不調を訴えるようになりました。私は、幸いにも、頚椎の故障が速やかに反応して頭痛を来たしていたし、大体、あの機械臭い風が大嫌いだったので、はじめから冷房機の前の席を避けていましので、所謂サラリーマンの冷房病ラッシュからは逃れられました。
今でも、冷房がきいた電車やバスに乗るのが苦手です。自分の車でも、余程のことがなければクーラーをつけることはありません。
しかし、しかし・・・あの、汗の水溜りのようなベッドで、呻きながらのたうつ半醒半睡の真夜中の苦痛を思うと、今年こそは小さなクーラーを設備しようかという誘惑に駆られます。何も、涼しく感じるほど室温を下げなくてもいいのです。せめて、暑苦しさを感じない程度になれば。
クーラーを常用されている方々によれば、昨今のクーラーは、昔のように冷風を吹き付けて強制的に室温を下げるというような仕組みではないとのことです。それに、室温だけでなく、湿度の調整は健康的にも快適で有益なのだそうです。でも、基本の基本は、今も昔も冷風を噴射して、反自然的に気温を操作しようということでしょう。どうも、その辺りが、頭痛だけではなく、私をクーラー嫌いにさせる大きな要因なのかも知れません。
本来であれば、私の住む藤沢善行地区は、航空機の往来航路にあたっていて、騒音対策として窓が開けられないという事情でクーラー設置の補助が受けられるらしいのです。しかし、ほんの少し調べただけで、補助を受ける資格証明の煩雑さに辟易として補助を放棄しました。
さてさてどうしたものでしょう。高額ではないとはいえ、経済的にだって決してその出費は軽微ではありません。
しかも、今まで収入の少なさに応じて免除されていた諸税が一度に納税義務を生じ、国民健康保険料が激増し、加えて、微小ですが年金が漸減しています。このたびの行政改革で生じた「受益者の公平負担」という理念によって、高齢者や低所得者を保護するという制度が撤廃されたせいです。他に収入の道のない弱者には、何とも酷い世の中になったものです。小泉さんは、「高齢者の方にも、円滑な福祉行政の運営のため、ホンの少し負担をしていただくことに・・・」とのことです。ホンの少し?まったく、もう~、冗談じゃありません!
こんなことをぼやいていても埒があきません。暑い日には、せめて海岸やマリーナに出掛け、思いっ切りいい汗をかいてくることにしています。そういう意味では、前回にお知らせした『セィラビリテー江ノ島』でのヨットのボランティア活動は、私にとって最高のストレス発散の場となっています。
大好きな湘南の海で、気の合った仲間たちと共に真夏の陽光を浴びて汗をかく・・・考えてみれば、とてもとても幸せなことなんですね。

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5月27日(土)/ 雨

前回、田久保雅己氏の著書『海からのメッセージ』に触発された、あの微熱的な海への想いを書きました。それは、懐かしくも未だに騒がしく私の内面に波立つように秘められた情熱でした。
先日、その『手紙』を読んでくれた知人が、新聞の告知欄に載っていたボランティアの募集を知らせてくれました。
それは、障害者、高齢者、未体験者にヨットの楽しさを味わっていただこうという活動を江ノ島ヨットクラブの内部グループである[セーラビリティー江ノ島]がやっているというもので、ヨットに乗ってみたいという方といっしょに、その方々をお世話する経験者のボランティアを募るものでした。
世界周航の夢半ばにしてオーストラリアでヨットをリタイアし、帰国して以来、積極的な何の活動もしていなかった私に、その知人が、まだまだ世間のお役に立つ方途があるじゃないかと叱咤激励してくださった訳です。老け込むにはまだ早い、かといって、ノコノコ出しゃばって行くべき活動の場もないという私にとって、これは正に渡りに舟の情報でした。
早速、所定の日時に江ノ島女性センターの会議室へ出掛けてみました。
代表の松本富士也氏(かつてのオリンピック日本代表選手)に会い、互いに面識はないものの、狭いヨット界ではまるで旧知の間柄のように話が弾み、セイラビリティー江ノ島の会員としてお手伝いすることになりました。
主催者も驚いていましたが、障害者10名、高齢者10名、経験者(ボランティア)10名の計30名ほどを見込んでいたのに、当日会場には50名近くもの参加希望者が集まっていました。なかなかヨットに乗る機会はないものの、多くの方々が一度は乗ってみたいという願望をお持ちであることを知って心強く感じました。

さて、予め定められた第三水曜日、参加を勧めてくれた知人(私の家族会員として入会させていただいた)を伴ってマリーナへ出掛けました。
当日、松本氏は居ませんでしたが、多くのボランティアのメンバーたちが甲斐甲斐しく乗艇希望者のお世話をしていました。その方々に指示を頂き、着岸や離岸、儀装などを手伝っていると、いつの間にか海と私との結びつきの糸目が見えてきます。何だか、久し振りに古巣に帰って来たような安堵感があるのです。あゝ、やっぱり参加してみて好かった!思わず、勧めてくれた知人に感謝の言葉を呟いていました。
ヨットは、オーストラリアで開発されたユニヴァーサル・デザインのアクセス・ディンギーという艇種で、例え両手が使えない障害者の方でも僅かな儀装の工夫で乗艇できるという安全なものです。非常に重いセンターボードと両舷の大きな浮力で、ほとんど転覆は考えられないという設計です。
私は、小型ヨットからは随分縁遠い所にいたので知りませんでしたが、このクラスの世界選手権もあるそうで、ボランティアの中には日本代表選手の方もおりました。
初日は陸からのサポートだけでしたが、2度目の日は、レスキューボートで5艘のヨットの安全を確保するためにその周りを走り回ったり、初心者の方を乗せてセーリングのコーチをしたり・・・お世話をする側なのに、自分が海を満喫して楽しんでいました。
帰宅して温かいシャワーを浴びると、それほど強い陽射しがなくても潮焼けした肌がピリピリと快い反応をします。あゝ、この感覚も随分昔に忘れかけていた感覚です。
これからは時々海へ出掛け、心身ともに海にまみれ、ヨットを体験したいと望まれる方々に、ヨットの楽しさ、そして、海が惜しみなく私たちに与えてくれる楽しく壮大な夢を分け与えるお手伝いをしたいと考えております。

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4月10日(月)/曇り・小雨

厳しかった今年の冬も過ぎ、あっという間に桜が満開になりました。でも、今日のこの寒さは、風流にいえば「花冷え」なんでしょうが、こういう寒さは身に沁みるばかりで、楽しくも風流でもありません。
仕方がないので、ストーブの前に椅子を引っ張ってきて、本を読んでいます。
最近は、なかなかこれという本に出会いません。ところが、つい先頃、舵社の編集長をしている田久保雅己氏の著作『海からのメッセージ』(舵社)が刊行され、早速取り寄せました。
著書は、舵誌毎号の巻頭言を一冊にまとめたものですから、ほとんどは一度読んでいるものばかりなのです。
しかし、あらためて読んでみると、何ともいえない海への憧れや懐かしさが文中にちりばめられていて、ちょっと覗いてみるつもりで開いた本が、ページを閉じることが出来なくなってしまいました。
一気に三分の一ほど読み進みながら、この胸の内に感じる熱いものは一体何だろうと自問していました。
ヨットを売り払ってオーストラリアから日本へ帰国して以来、私の海とヨットへの関わりは完全に変ってしまいました。
何といえばいいのでしょう・・・海に疎外感を味わうとでもいうのでしょうか。ヨットを介し、私はもう数十年も海の中に住んでいたような気がしていたし、何 の疑いもなく海は私のものと思い込んでいました。しかし、海との架け橋であるヨットを失ってみると、もう、海は私が馴れなれしく近寄るべきものではないよ うな遠さを感じてしまうのです。
私の住んでいる藤沢は正に湘南の海の街です。家は海岸から相当遠いとはいえ、その気になれば、海は間違いなくこの街の南側に誰でも見ることが出来ます。
しかし、それは表面だけの空虚な海です。平面の海・・・どっしりと重量を帯びた立方体の海ではありません。それに、どのマリーナへ出掛けても、やはり私はよそ者だな〜と自分を感じてしまいます。
『海からのメッセージ』には、海を自分のものと疑わなかった頃の、あの微熱的な憧れがぎっしり詰まっていて、文章のあちこちでキラキラと光っています。
この微熱的な憧れを取り戻せないものか!
オーストラリアのマルルバ(Mooloolaba)のマリーナで、世界をヨットで旅する夢を捨てなければならなかったその時、「将来、私はどうやって生きていけばいいのだろう?」と自問したのは、正にこういうことだったのかも知れません。
それから、「自分が伸ばした腕の先の指も見えないほど濃密な霧の中で、自分が何処へ向かえばいいのかも分からない」とも書きました。つまり、海という実態 に向かって進もうとすると、そこには海からの疎外感が立ち塞がっていて、私の視界を閉ざしてしまうということもその一部なのかも知れません。
そうした閉塞感の闇の中に、キラキラと光るものを見せてくれたのが『海からのメッセージ』でした。
海は誰も疎外しないし、誰にでも平等に潮風や陽射しや水平線の彼方への憧れを与えてくれるとその本は私を諭してくれました。
まあ、この齢になると、太平洋を越えて再び旅に出ようなんて気概はもうありません。せめて、どこかの辺鄙な漁港の片隅にでも25フィート程度の小舟を浮か べて、かつてのようにカクテルや覚えたての料理を振舞ったりして友と語らうとか、フラリと伊豆大島の波浮の港を訪ねるとか・・・そのくらいの関わりで海と 付き合うことなら出来そうです。実現の可能性は兎も角、夢なら誰でもいくらでも抱え込むことができるではありませんか。
『海からのメッセージ』は、そんな風に私を元気づけてくれる本でした。

*この文章は4月10日に書いたものですが、サーバーの書き込み機能の故障のため、更新が遅れました。

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3月10日(金)/曇り・雨

春が近づいたかと思うと翌日は遠ざかり、冬のような寒さを呈します。正に三寒四温を日々体感します。特に今日の寒さは格別のようです。しかも、昨夜から、持病の胆嚢炎の予兆で眠ることが出来ず、今日の気象の厳しさが身に応えます。
とはいえ、春は目の前。もうすぐ桜の花便りも聞こえてくることでしょう。もうちょっとの辛抱ですね。
昨夜(3月8日)8時から、フジテレビで、1986年に起きた伊豆大島の三原山噴火と全島民避難のセミドキュメンタリー番組がありました。振り返ると、早くも20年の歳月が流れていました。そして、何とも切ない想い出が湧き返ってきました。
あの頃は、私は鎌倉に住んでいました。11月15日、噴火の報道を聞いて海岸へ行って見ました。真っ暗な水平線に、空を赤く染めて噴火の様子が遠望できま した。あァ~、これは大変なことになったと感じましたが、それでもまだ逼迫した状況ではありませんでした。日が経つにつれ、溶岩が三原山の噴火口内輪山を 越え、外輪山が危機的状態になりつつあると耳に入ってきました。
当時、私はヨットにどっぷり浸かったような生活をしており、折があれば大島へ出掛けていました。三浦半島先端のシーボニアから、潮と風がよければ4時間で行ける距離です。もっとも、条件が悪ければ10時かかかることもありました。
私の気持の中には、大島には一方ならずお世話になっているという恩義の想いと、何度も訪れた親近感がありました。ですから、こんな時、何か恩返しは出来ないものかと考えていました。
そうこうする内、三原山山腹(外輪山の外側)に割れ目噴火が発生したというニュースが流れました。そして、全島民11000人の緊急避難が決定しました。
空港は火山弾や地震による滑走路の亀裂などで使用不能です。離島としての脱出手段は船以外にありません。
早速、定期運行の船舶や海上保安庁の巡視船が大島へ急行することになりました。
話は、ひと時三原山噴火と離れます。
1940年、第二次世界大戦のさ中、ドイツ機甲師団に退路を絶たれ包囲された連合軍兵士20万人が、何の防護障壁もないダンケルクの海岸に孤立し、全滅か降伏の岐路に立たされていました。
目の前で兵士が斃れ、救援の船舶がメッサーシュミットの爆撃に撃沈されてゆきます。もはや、海岸に救助を待つ兵士20万人は絶望かと思われた時、イギリスの首相であるチャーチルがラジオを通じ国民に懇請のメッセージを報じます。
ご存知の方も多いと思いますが、チャーチルは自らもヨットに親しむシーマンです。歴代の首相で最も有名なのはヒース氏で、世界一過酷といわれるヨットレー スのアドミラルカップに二度に亘り優勝しています。つまり、本物の海洋国イギリスのリーダーたちは、海が何たるかを知ってるということです。
サー・チャーチルは、国民に向けて叫びます。以下、既存の文章を引用させてもらいます。
『“いま、連合軍20万兵士が、ダンケルクの海浜で救出を待っている。大小は問わぬ。如何なる船でもいい。船を持っている国民は、英仏海峡を渡ってダンケルクに赴き、一人でも多くの将兵を英本土に連れ帰ってもらいたい。”
この放送を耳にした英国ドーバー海峡、北海沿岸のヨット・ボートのオーナー達は、先を争って英仏海峡を渡り、漁船、貨物船、タグボートの群れや、正規の救 出部隊の軍艦、輸送船等の間に混じり、あるものは岸に近づけぬ大型船と砂浜の間の艀(はしけ)の役を務め、また、あるものは兵員を満載してドーバー海峡を 往復し、跳梁する独機の妨害によって多くの犠牲を出しながら、実に338,226名の英仏軍将兵を英本土に連れ帰った。人呼んで「ダンケルクの奇蹟」とい う。』(田邉英蔵著・「往年の名画」・舵海洋文庫「キャビン夜話」より)
私は、かつてこの文章を読んで感動したものです。そう、ヨットマンと海との関わりとは、こういうものであるはずだと思いました。
また話が脇に外れますが、世界の国々の船舶の船籍国表示はエンサインという国旗で表され、軍艦、商工業船、プレジャー船によって旗の色が異なります。軍艦 は白(ホワイト・エンサイン)、商工業船は赤、プレジャー船は青です。しかし、イギリスの特定ヨットクラブに所属するヨットは、プレジャー船のブルーエン サイン(青)ではなく、軍艦のホワイト・エンサインを掲げることが許されています。そして、海上では、軍艦は最大の敬意を表される存在なのです。前掲のダ ンケルクの史実は、イギリスに於けるヨットの地位を如実に物語っていると思います。
さて、話は大島に戻ります。
山腹の割れ目噴火が報じられ、元町港が危ないといわれだし、元町に集まった避難者を波浮へバスで移送しだしたことを知った私は、何人かの仲間と諮ってマリーナに集まりました。まず、何処の港へ行くべきか?私たちにどんなお役に立てるかと考え、保安庁に電話をしてみました。
「いつもお世話になっている大島の窮状に、少しでもお役に立ちたいと思います。何艘かのヨットが駆けつけたいのですが、何処でどういう役目が果たせます か?」と尋ねました。保安庁の電話は、周囲の慌しさを受話器を通して伝えていました。そして、電話口の係官が「物見遊山でお前たちヨット乗りが行く所じゃ ない!野次馬根性で、救助の邪魔をしたら承知しないぞ!」と叫ぶように怒鳴りました。
振り返れば、20年前のあの頃、ヨットと巡視船・漁船とは犬猿の仲でした。兎に角、ヨットと見ると巡視船が接舷して船籍票や役にも立たない小型船舶の免許 証の提示を求められたものです。漁船は、私たちの税金で作ったガラ空きの港にヨットが入港することを頑強に拒み、港外で大きなうねりに翻弄されて夜を明か したことが何度もありました。そんな時代ですから、保安庁の係官にシーマンシップを理解せよというのも無理な話だったかも知れません。
しかし、昨夜、伊豆大島噴火のセミドキュメントの番組を見て、ほろ苦い想い出が湧き上がってきました。もう、20年もの大昔の想い出です。

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12月25日(日)/晴

今日はクリスマス。今朝、目覚めてプレゼントに歓喜する子供たちに、思わず顔をほころばせたお父さん、お母さんもいらっしゃったことでしょう。
また、私たちも、宗教がどうのと顰めっつらしい分別を云々する前に、みんなが心を開いて祝える慶事をいっしょに喜べたら、それでいいのだと思っています。
最近の私は、あまり外へも行かず、繁華街にも足を踏み入れることがなく、クリスマス商戦も歳末大売出しもどんな具合なのか想像もできません。そんな私が容易に思い浮かべられるのは、いまから8年ほど前のサンディエゴ(カリフォルニア)のクリスマス風景です。
第一印象は、正に世の中クリスマス一色。それは、11月末のサンクスギビング・ディーが終わった辺りからぼちぼち盛り上がり始めるクリスマス・シーズンの約一ヶ月間です。
そしてそれは、日本のように商戦がしのぎを削り、それに乗せられて庶民がそわそわしだすというのではなく、一年中で最も華やかな祭であるクリスマスを待ち切れない人々の心の高まりに、自然と街中が盛り上がるという仕組みです。クリスマスは、子供も大人も、誰もが本気で待ち焦がれ、そして楽しむ祭なのです。
その辺りのノリというものは、正にアメリカ人ならではです。オフイスに出勤するにしても、赤と緑のクリスマスカラーのセーターやジャケットを着たり、左右どちらかが赤、別の方が緑といったソックスを履いてみたり、マフラーの裏表がそれぞれ赤・緑だったり、家ごとクリスマス・イルミネーションで飾ったり・・・それはそれは、大人も子供も、お伽噺を本気で暮らしの中に取り込んだメルヘンチックな数週間なのです。
街角には、ディケンズのクリスマス・キャロルを模したシルクハットとマントとステッキの紳士やふっくらと胸高に履いたビロードのスカートにボンネットを飾り紐で頭に載せた淑女たちが街中を練り歩き、ところどころで聖歌やクリスマスソングを素晴らしいハーモニーで聞かせてくれます。
ショッピングセンターのアルコーブにはサンタのお家が設えられ、木の切り株に腰掛けたサンタが、2~4歳ほどの子供を膝に乗せて幼い子供のお話を聞いて上げるイヴェントがあちこちで行われます。子供は、サンタにどんなクリスマス・プレゼントが欲しいとか、或いは様々な夢や小さな悩みなどを打ち明け、サンタはこっそりと親に耳打ちするという仕掛けです。サンタの膝で一生懸命何かを訴える幼な子は、見ているだけで思わず笑みが漏れてしまいます。
毎日、クリスマスカードが郵便受けを満たし、折に触れて手渡され、或いは送られてくるプレゼントで、居間の中心をなすファイアー・プレイス(暖炉)とクリスマスツリーの周辺は華やかに賑わいを見せ、大人も子供も、イヴ開けの25日の朝を胸を高鳴らせて待ちます。
さて、そうしたクリスマス・プレゼントには、往々にしてデパートのタック(値札など)が付いたままなのです。
これは、若し色合いが気に入らなかったり(他の色合いの方がいいとか)、サイズが合わなかったりした場合、タックが付いているとデパートなどで品物を交換してくれるという便宜のためです。いくら開けっぴろげとはいえ、まさかプレゼントにレシートまでは付けてくれる人はいませんから、販売したお店が分かるタックは、こうしたサーヴィスのためには不可欠な訳です。(訂正:最近では、品物の交換が見込まれる場合、レシートを添付することもあるそうです。)
まあ、そこまではなかなか便利なサーヴィスと納得できますし、日本でもこんな風習があればいいのにと思われる方も多いことでしょう。こんなサーヴィスがあれば、絶対使うことがないメチャクチャひどいセンスの茶器や食器、装飾丁度品、スカーフ、ネクタイ、カーディガンなどなど、押入れや戸棚の中に眠らせておかずに活用も出来るというものです。
ところが、このサーヴィスの意外な応用法があったのです。これは、私が2年ばかり暮らした8年ほど昔のサンディエゴのことですから、現在は随分状況が変わっているかも知れません。若し、「そんなのは昔の話だよ」ということでしたら、どなたか教えて下さい。
それは、プレゼントの品物をデパートに返品して代金を現金でせしめてくるというものです。これが1、2点というのなら納得もいくのですが、豪華なドレスやコートなどの衣類、指輪やネックレスなどの装身具、電化製品や身の回りの小物から食品・飲料・・・私が知っていた女性は、一人で何十点も車で持ち込むというから凄いことです。(どこからそんなにプレゼントが来るのでしょうかネ!)そして、クリスマス明けの数日、デパートへ返品に(或いは、品物の交換に)向かう車で道路が渋滞するほどです。
ですから、デパートのクリスマス・セールの売り上げ高、または利潤は、この返品シーズンを過ぎなければ確定しないのだそうです。
日本ではちょっと考えられない商習慣ですが、したたかなアメリカ人(主に女性)は、物凄い消費イニシアティヴと逞しい生活力を発揮して、独特のリサイクルのシステムを作り上げてしまった訳です。
アメリカのことなら、大体のところ想像がつくと思われている方も多いのでしょうが、こうしたシステムが自然発生的に出来上がるという土台が、そもそも異文化なのです。
異文化は、5泊7日の観光旅行を何十回繰り返しても分かりません。何とか時間をやり繰りして、最低一年間、現地に住み、現地の言葉で暮らしてみることが大切です。日々、目からウロコが落ちる新鮮な体験を繋ぎ合わせて暮らすということは、人間としての見識も大いに広げてくれますよ。

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12月11日(日)/曇り・気温7℃

朝から寒い一日です。昨日までは、予報をはるかに上回る上天気が続き暖かかっただけに、今日の寒さは身に沁みます。
もっとも、既に12月も中旬。そこそこに寒くなければ、これからの歳末行事も歳の市もそれらしい季節感が出ません。師走の街へ繰り出すには今一つ体調がす ぐれず、現在、下町がどんな賑わいを示しているのか想像もつきませんが、恐らくは、クリスマス・セールとかでジングルベルが鳴り響いているのでしょう。
体調がすぐれないというのは、持病のCOPD(呼吸器系疾患)で呼吸不全を来たし、僅かな運動にも困難を極めるためです。特に駅の階段が苦手で、途中で小 休止して呼吸を整えなければ登り切ることは出来ません。昔の溌剌とした私を知っている方には、絶対に見せたくない姿です。
私事はさて置き・・・・・
最近の幼児(幼女)殺人事件の連続に背筋の凍る思いがします。今日も、学習塾の女の子が、23歳の講師に刺殺されました。この連鎖は一体何なんでしょうか・・・。
何れにせよ、性格、或いは精神の異常者の仕業でしょうが、どうしてこんなにも簡単に人が殺せるのでしょう。それも、幼女ばかりというのには、何か非常に歪んだ醜悪な精神の在りようを感じさせます。
昔と比較しても何の解決にもなりませんが、少なくとも、昔はこんなに簡単に人を殺したりはしませんでした。若し殺人事件があると、何年も何年も語り草に なって、まるで一つの伝説のように語り継がれたものでした。それだけ人の命が大切にされ、形ばかりの黙祷ではなく、誰もが心の底から死を悼みました。
現代は、病んでいます。現代とは、それを構成する人々の心、すなわち、私たちみんなの心のことです。殺人者も、それを報道で知り背筋が寒いと嘆き、そして、一ヶ月もするとケロッと忘れてしまう私たち自身の心も同時に病んでいるのです。
子供が一人で学校へ行けない社会なんて、かつての日本にはありえないことでした。しかし、アメリカでは、子供は親が送り迎えするのが常識になっています。
親や肉親が徒歩で、または車で、或いは学校によってはスクールバスで子供を送迎します。若し、肉親が送迎出来ない場合は、タクシーに送迎を依頼することもありますし、送迎を専門にするアルバイターなどもいます。
私は、日本はまだまだ当分はアメリカほど治安が悪化することはないと多寡をくくっていました。ところがどうでしょう、そう思ってから十年も経ず、今や日本は子供が一人で学校へ行けない国になってしまいました。
人心が病み、社会が歪み、犯罪が多発する現況を根底から治そうと思えば、教育の見直しから手掛けなければなりません。でも、その即効性は求めるべくもなく、考えるだけでも気が遠くなるような話です。
当分は先進国?アメリカのお手本で子供を守るしかない・・・やれやれ、何とも悲しい話ですね。

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11月23日(水)/晴

随分怠けてしまったものです。お詫びいたします。
早いもので、もう11月も下旬です。今年も、わずかに一ヶ月少々を残すばかりです。エッ、いつの間に?と思うほどに光陰矢の如し、歳をとってからの月日の流れの速やかさには驚くばかりです。
そんなことばかりぼやいていても始まりません。一歩も外へ出ずに一日が暮れるような生活をしていると、体重ばかりがジワジワと増え、年寄りの生活習慣病の危機が迫ってくるだけです。
今日は天気も良し、気温も程々に暖かく、家に燻っているのはいくらなんでも気が咎めます。腰に万歩計をくっつけて散歩に出掛けました。
例年なら鮮やかな黄色に輝いている公孫樹の葉が、今年は青々としています。紅葉もちぐはぐで、木立も戸惑っているようです。晩秋、または初冬というのに、 くっきりと空が晴れ上がることもなく、富士山の遠望が、今年は霞がかかったようにほとんど見えません。温暖化現象なのでしょうか、自然のサイクルが崩壊し つつあるような不気味な印象です。そんな影響なのかどうか、色とりどりの小菊ばかりが恐ろしい勢いで繁茂していました。
近くの里山を中心の散歩には、珍しい花を発見し愛でる楽しみがあります。
11月末というのに、エンジェル・トランペットがまだ咲いているのには驚きました。
また、野原の真ん中に、高さ3メートル以上もある草で直径20cmもある白地に薄紅の縁取りのある花を見つけました。はじめて見た花で名前は分かりませ ん。とりあえずカメラに収め、家に帰ってからパソコンで検索しようと何枚も撮影してきました。検索の結果、ツリーダリア、またはコダチダリアというダリア の原種なのだそうです。それにしても何と背の高いダリアでしょう。木ではなく草本であんなに背が高く大きな花は、日本では見たことがありません。
話は飛躍しますが、地球温暖化現象は、いろんな意味で私たちの生活に変化や影響を及ぼしています。
「人の噂も75日」の喩えではありませんが、アメリカ南部のハリケーンによる洪水にしても、海面水位の上昇が影響していたことは明らかです。ヴェネチアの サンマルコ広場などは、大潮の満潮時には広場が冠水するといいます。世界中には、こういう現象がいくらでもあるそうです。
北極・南極の氷が溶け出したり、氷河の裾がどんどん後退していることは誰もが承知していることです。
しかし、地球温暖化を阻止すべく提議された京都議定書のCO2削減が、その発議国の日本でさえ達成不能ということです。しかも、仮に達成された場合、その 余剰数値が商業的に売買されるというのは、一体どういうモラルから発想されるのでしょう。資金さえあれば、CO2の垂れ流しは認められるということでしょ うか。こういう考え方は、地球の使い捨てを承知しなければ発想できない考え方です。差し当たり、私たちの子供、孫、せいぜい曾孫世代あたりまで維持出来れ ば、地球は使い捨てでも構わないとでもいうのでしょうか。
私たちがすっかり身に沁みた便利さを支える工業を捨てるか、それとも地球の使い捨てを覚悟するか・・・私たちは今、そこまで追い込まれているということを、肝に銘じて考えなければならないと思います。何とも、心が寒々とする話ですね。

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