2007/10/2 火曜日

2007年10月2日(火)/曇り

カテゴリー: 未分類 — zen @ 2:05:56

>こんにちは!
おせっかいだとは思いますが、イギリスはアメリカズカップの歴史の中で1度もタイトルを手にしたことがなく、したがって防衛艇を作ったことはないと思います。 by K/IWAMOTO — 2007/10/1<
上記のようなコメントが入っていました。早速、アドレスを探し当て、返信のメールを送りましたが、何度送信しても“User Unknown”で戻ってきます。そのメールの内容は:
>確かに、仰るとおり、アメリカス・カップでイギリスが防衛に回ったことはありません。ヨットマンとしてあまりにも常識的な誤りでお恥ずかしい限りです。訂正しお詫びいたします。 zen<
こういうのって、気になりますよね。
あ~、これは明らかに私のミスだと認識し、間違いの記事を書いたお詫び共々お知らせしなければと思ってメールが届かない。昨日から、私はこのことに懸かりっ切りで、すっかり気もそぞろでした。
私がブログの片隅に間違った記事を書いたからといって、世間の大勢には何の影響もないことです。しかし、間違いを犯した事実に変わりはありません。ですから、はじめはご本人にお知らせしお詫びすればと考えたのですが、メールの不通をきっかけに、書いたブログのその場で訂正しお詫びしなければと思い直した次第です。冒頭、私事で恐縮です。

急に秋めいてきました。
今まで短パン・Tシャツだったのに、Gパンと綿ニットの長袖なんか引っ張り出して着込んでいます。海人間にとって、つい先日まで猛暑に苦しんだことも忘れ、暑さが遠退く寂寥感が切実で、われ知らずため息を漏れます。
9月の半ば、たまたま私の誕生日に、諸礒のPUFFというヨットのお誘いをいただき、珍しく体調も良かったので久し振りにヨットに乗ってきました。
動けば喘息でゼイゼイと息を切らせてオーナーやクルーの方々にご心配をお掛けするのですが、沖へ出た途端、体が自然に動いて、いつの間にかメイン・シートを仕切っていました。ヨットというものは基本的にはどの舟も同じですから、初乗りの船でも操作に迷うことはありません。
それよりも、船の動きに応じて体が自然に動くという身に沁みたシー・ワージネスには、我ながら驚きました。幸か不幸か、当日は海がかなり荒れていましたから、沖合いの小網代ブイを大回りして、すぐホームポートに戻りましたが、バウが波にぶち当たって上がる生暖かい海水のスプレーに思わず漏らす笑みは、恐らく青年期のそれと些かも違いはなかったと自負しております。
もっと私は海へ出なければいけません。体の健康だけじゃなく、精神に若さと活力を持続するためにも。
海へ行けば、同じ趣向の人々がデッキに集い、私の拙い航海談義などを喜んで聞いてくれます。話す私は、その時だけは、果てしない大洋を“禅”に乗って雄々しく帆走しています。喘息も肺気腫も老齢も忘れて。
海はいいですねェ~。身のハンディキャップも年齢も、何もかも大らかに公平にその懐に受け止めてくれます。本当に、海はいいです!

2007/7/12 木曜日

2007年7月12日(木)/雨

カテゴリー: 未分類 — zen @ 2:31:04

台風4号が南海上で本土をうかがっている。
そろそろ、この時期は次々と台風がやってくる季節だ。いつだったか、台風が大暴れして過ぎて、台風一過のタイミングで梅雨が明けたことがあった。夏を目前にして、心に海を抱えている人にとって、そわそわと落ち着かず胸躍る季節だ。
身体が思うように活動してくれないから、この季節、昔のようにヨットにのめり込んでいるという訳にはいかないけど、インターネットを通じ、情報だけはいくらでも入ってくる。
アメリカスカップの決勝が、歴史的僅差で勝敗が決まったとか、大昔(現在のクラスボートの2代前。12m級の前代)のアメリカス・カッパーであるJボートの「Endeavour(エンデバー)」がいま日本に来ているとか・・・。
随分昔になるが、舵誌のグラビアでJボートの写真を見たことがある。ブームはマストからスターン(船尾)までいっぱいに延び、マストの高さは我々の常識を遥かに超えて高かった。ランニングの風を受け、スピンネーカーとジェネカー、それに巨大なメインセールを左右に大きく開いた様は、大鷲が誇らしげに翼を広げた姿に見えたものだ。確か、1930年代のイギリスの防衛艇だから、建造70年を遥かに超えている。しかし、その船型の美しさは、これぞヨットというべき美の究極といって過言ではない。
話が風任せで、あらぬ方へ流れてゆくが、かといって別に定めた話題があった訳でもない。まあ、たまたま珍しく郵便受けに手書きの葉書が舞い込んだことに、随分ご無沙汰のこのページに書いてみようかと心が揺れたことが発端ではある。

葉書の主は、ヨット「あうん」のオーナー、九里(くのり)さん。投函地は沖縄・宜野湾市である。彼は、気楽に日本全土を一回りしようと愛艇でクルーズ中である。
彼は、過日、鹿児島の谷山港から電話を掛けてきた。「谷山に舫をとったら、周りに「海連」や「ファーザー」がいる。急に、zenに電話してみたくなった」という意味のことをいっていた。ご存知のように「海連」は今給黎教子、「ファーザー」は山脇一郎(通称・ケンちゃん)のヨットである。
折角だから、噂に聞く、鹿児島の熱いセーラー魂に触れてもらいたくて、各方面にメールやら電話をして、ホスピタリティー方々、お引き回しをお願いした。
そんなご縁から、7月5日に沖縄・宜野湾に入港したというお知らせの葉書を頂いた訳である。

文面は、連日の猛暑、近づく台風シーズンに触れた短いものだが、葉書の下半分、僅かにヴィリジアンを滴らせたセルリアン・ブルーの絵の具を、ずぼらな筆で捉われるものもなく置いたような彩色があって、その下に「宜野湾の海」とキャプションが記されていた。
それで充分だった。私の想いは、心を吸い寄せるような南国の海にいざなわれ、久しく文章を編む意欲も起こらなかった私に、このページに何かを書き訴えたいと思わせるインパクトを与えた。

2007/3/29 木曜日

3月29日(木)/快晴・強風

カテゴリー: 未分類 — zen @ 11:25:31

花に嵐とはよくいったもので、桜の満開時には、花を散らしはせぬかと気を揉ませる風が吹くものだ。今日もまさにそういう風は吹き荒れている。
また、こういう日、つまり、前線が通過中で強風が吹く日は、私の偏頭痛の日でもある。朝から、頭の中を通奏低音のような痛みが反響してとどまることがない。何をやる気力も湧かず、ただ時折頭を拳で叩いてみたり、こめかみを指で押さえてみたり、気象が安定して頭痛が去るまで無為な時間を悶々と過ごしている。
しかし、悶々と無為に、或いは、無気力に日々を過ごすのは、何も偏頭痛ばかりに起因するとは限らない。
先日、あまりの不甲斐ない自らを顧みて、一体どこで気力を置き忘れてきたのだろうと考えてみた。
あんなにも身を削り鎬(しのぎ)を削り、他と競って一歩もひけをとらず、むしろ常に勝ち組に勝ち残り、仕事に趣味に新境地を切り開いて来たではないか。その勢いをそのままに、単独、ヨットを駆って世界の海へ挑んだあの気力は、一体どこへ消えてしまったのだろう。

25年間勤務した会社を、突然たった3時間で辞め、世界の海へ想いを馳せた。毎日、寸暇を惜しんでヨットを整備し、傍ら、未知への心を練った。全ては覚悟の問題だった。最悪でも死ぬだけだ。しかも、単独だから誰をも巻き込まず、誰にも迷惑はかけないということが心の慰めだった。まあ、死ぬつもりで海へ出掛けて行くわけではなく、生きて世界の海を楽しむことが本意だから、世界中のパラダイスといわれる所を研究した。ヨーロッパに辿り着いた時を想定して、ギリシャ神話は徹底的に学んだ。

でも、不思議なことに、航海が終わった後のことは、全く考えることがなかった。
今にして思えば、航海の後に自分の人生が続くということに想いが及んでいなかったし、航海後の人生なんて、はっきりいってどうでもよかった。
講演などで航海談の締めくくりに、私はよく『ヨットを駆って世界の海へ出て行くということは、今までの人生に一区切りつけて、もう一つ別の人生を始めるということです。それほど画期的に、未知の世界で未知の自分を発見することなんです』と話す。
人の未来なんて誰にも分からない。医者に余命1年なんて宣告されても、私の知人に既に3年も生き永らえているしぶとい奴もいる。だから、航海後の人生を計画しなかったからといって、私の人生の道筋が消え果てているというものでもない。時間は着実に流れ、いつの間にか、正に老耄の世代に足を踏み入れている。そればかりか、自ら予測もしなかった物語が展開し、人の世の、或いは人生の機微に一喜一憂し、時に感じ入ることもある。

しかし、航海計画と共に、航海が終了した後をどのようなシナリオで生きて行くかを、航海に先駆けて考えていなかったという不用意が、今、この人生の無気力と不如意を象徴しているように思えてならない。若しかすると、日々の暮らしはお釣りの人生ではないのか?航海の終わりで、本当は私の人生は終わっていたのではないか?そんな風に思うと、ついつい生きる気力に下っ腹の力が入らない。
そんな無気力な私を客観的に観察してみた。
あ~でもない、こ~でもない、そんなことを常日頃ぼやいて日々を送っているのも、如何にも年寄り臭く、どうやら年寄りの習い性のようなものらしい。その証拠に、ヨットだドライブだと、結構連れ合いと若者みたいにはしゃぎ回って日々を送っているではないか。ぼやく前に、不用意な人生にも拘わらず、それなりの充実と感動を与えてくれる周囲に感謝する心を忘れてはならない。落語の『小言念仏』ではないが、ぼやきの合間に、折々、感謝の言葉を挟むことを肝に銘じておかなくてはなるまい。

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