4月10日(日)/晴・20℃
昨日、今日と素晴らしいお天気でした。正にお花見日和。行楽地はどこも相当の人出だったようです。
車で走っていても、桜の花びらが舞い上がり、春爛漫とは今日のようなお天気をいうのでしょう。
畑下さんが夕べ三崎にお帰りになりました。
当初は、きゅうりとかみちゃまが畑下さんの故郷・那智勝浦までお送りして、フェリーで宮崎へ、さらに陸路で鹿児島へ帰る予定でしたが、行き掛かりで、また清水経由で三崎に戻って来ました。お二人には、心からご苦労様と申し上げます。
3月30日に三崎を発って長野の南安曇野郡梓川村に到着、翌日はご親戚の方々と久闊を温め、併せて奥様のご遺骨をお父様のお墓に納骨するお許しを頂きました。4月1日は納骨と法要が営まれ、それが済むときゅうりとかみちゃまの車で松坂まで、さらに翌日は那智勝浦へ。真っ直ぐご先祖のお墓参りに向かった一行に、故郷の親戚や旧友が押しかけ、8日まで続く歓迎の饗宴の幕開けでした。
毎日、親戚、旧友、畑下さんが教師をしていた頃の教え子たち、さらに地元のヨット関係者やマスコミの応対に忙殺され、それでも畑下さんは持ち前の豪快な「ガハハ・・・」という笑いを頻発し、楽しそうだったといいます。更なるご様子は、かいれんのサイトに詳しいのでご参照下さい。
それにしても、畑下さんがアメリカのサンディエゴをヨットで出航し、日本へ向かったのは、奥様のご遺骨の納骨が主たる目的でした。その目的は、長野の奥様のご親戚が示して下さった安曇野の長閑な風景そのままに大きなお心で、温かいご厚情に迎えれて、とてもハッピーに果たされました。私ども俗人は、狭い度量でア~でもない、コ~でもないと、何かと杞憂を胸の内に膨らませていましたが、そうした心配が恥ずかしいほどスムーズにことが運びました。
さらに那智勝浦では、畑下さんは凱旋将軍のようだったといいます。地元新聞のトップ記事になったり、教え子たちの卒業年度ごとの歓迎会が催されたり、永らく日本を離れていた畑下さんにとって、あらためて日本人の心の広さと温かさに触れられたことと思います。
何はともあれ、畑下さんが命懸けで太平洋を渡って来られた目的は、あまりにも温かい心に包まれて果たされました。私どもボランティアとしては、ただ畑下さんの念願が叶えばと祈るような気持で見つめる以外、立ち入ることを差し控えていた事共が期待以上の形で達成されたことを心からうれしく思うばかりです。おめでとう、畑下さん!
さあ、これからは船の修理が一日も早く完了し、そして元気に日本を出航出来ることを目指してお手伝いをしようと思います。明日から、また私の三崎通いの日々が始まります。
PCの不都合で、10日のLetterが12日の上梓になってしまいました。
その間、私は11、12日に三崎の畑下さんを訪ねました。土・日の初夏の気候から急に冬に逆戻りしたような雨降りでしたが、畑下さんのところは大忙し。昨日はアメリカから到着したマストなどスパーを点検し、今日12日は、海難事故の保険に関する打ち合わせ、そして、フランスのフィガロ誌からの取材がありました。
先日は、The Wall Street Journal(3月24日付け)の一面と12面に大きく記事が取り上げられましたが、畑下さんの81歳での太平洋横断は地球規模のニュースになってしまったようです。
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