8月17日(水)/恐らく曇り
午前2時、深夜である。
暑さや、他愛もないことが気持に引っかかって眠れず、11時に睡眠薬をのんだ。それでも、眠気は一向に訪れない。いや、束の間、かすかに意識にレースのカーテンのような遮蔽物がやんわりと降りかかったことはあった。しかし、これまた夢とも思えぬややっこしい思考の拘りが、眠りの入口だったかも知れないカーテンを取り払ってしまった。時計は2時を指している。こんな時間、外なんか見たって何にも見えやしない。だから、8月17日(水)/恐らく曇りなんだ。恐らく・・・。
『禅からの手紙』に書くべきテーマがあってPCに火を入れた訳でもない。目が醒め、暫く寝床にしがみついて、やがて諦めて手洗いに行った。そして、冷蔵庫を開けて飲み物を物色・・・といったってウーロン茶とジンジャーエールしかない。ウーロン茶に氷を2,3欠け入れてデスクの革張りの椅子に腰を降ろした。
結果、PCは電源を入れられ、冷却ファンが回りだし、やがて画面に火が入った。
誰かにメール書くって宛てもなし、またそんな時間でもないし・・・まあ、書くとすればホームページの『Letter』でしょう。
気になってしょうがないことといえば、このところ、やたらと「黙祷!」って多いと思わない?黙祷って、犠牲者の霊を慰めると共に、もうそういう間違いは犯しませんからっていう懺悔でしょう。それが、どうしてこんなに多いのか、どうしてこんなにも誤りばかり繰り返し、そして懺悔ばかりしているのかって、不思議に思わない?もう致しませんからって謝っておいて、また別のところへいって同じような詫びの言葉を繰り返すって恥ずかしいと思わないのかなァ。
まあ、確かに、或る永いスパンを我々が拘わるべき時代と心に決めれば、そこに時系列的に多くの歴史が積み重なってきて、『黙祷!』や懺悔やお詫びや反省の機会が多くなるというのは、仕方がないことなのかも知れないけど。それにしても、次から次へと、繰り返すべきではない過ちが繰り返され、来年になれば、さらに懺悔の機会、いや『黙祷!』の機会がふえるんじゃないかしら。
オレって、揉め事って大嫌いなのよ。彼女とのちょっとした気持の行き違いが言葉や行動に現れると、もうオレってシュンとしてしまう。
揉め事が好きな人はいないっていうけど、テレビ・ドラマなんて、ほとんどが登場人物同士の揉め事がテーマじゃない。それを、みんな夢中になって観ている。あれ、オレには到底我慢出来ないのよネ。
それは、ストリー上、二人が親密になるための布石のような揉め事なのかもしれないけど、オレって、そういうプロセスであっても、揉め事なんか人の目に曝して、しかもそれで劇作のプロが、TV局の編成が金とろうなんて魂胆、全く許せないんだ。
揉め事なんてものは、人前に持ち出す前に片付けてしまうべきものでしょ。揉めてる様子なんて、いってみれば当事者の恥部を大衆にさらけ出して見せていることでしょうが。西洋人のカップルなんか、人前でも結構オープンに揉めるけど、オレの感覚でいえば羞恥心の欠落としかいいようがない。つまり、奴らの文化のデリカシーに欠ける部分の露出だ。
ホームドラマもそうだけど、この前北京で開催した6者会議、あれも美意識のかけらもないねェ。
あれほど醜悪な筋書きを演じさせられて、各国代表、誰一人、「オレ、降りるよ」っていわないから凄いよね。日頃、醜悪なものに慣れちゃってるのかなァ。
北朝鮮の美意識が、何といっても最低だ。何故こう決め付けるかというと、あれは大戦前、大国に伍して何とかハッタリででも通さなくては立場がなかった日本の姿と同じでしょ。その結果、どうなったかは誰もが知ってるよね。利害関係が極度に対立して経済制裁から海上封鎖、そして急襲以外に活路を見出しえない日本の軍事事情が、世界戦史のもっともダーティーといわれる真珠湾奇襲攻撃をやらかした。
そして4年後、オレたちゼロから日本を立ち上げるという、まるで奴隷みたいな労働を強いられてきた。企業戦士だとか猛烈時代とか、そして過労死とか・・・。
何んでハッタリまで噛まし、背伸びまでして大国と肩を並べたいのか!北朝鮮さん、日本という反面教師がいるでしょうが。俺なら日本のようなドジは踏まぬというかも知れないけど、思い出してくれ、かつて、それは破滅に至る道だった。
「自民党をぶっ壊す!!」というあれも美意識まるでないよネ。
昔は、反対勢力は、物事の多面性を精査する大切な言論機能だった。だから、野党は在野精神をもって誇りとした。オレは早稲田だから、徹底的に在野精神というものを叩き込まれ、それが早稲田出身者の使命だと誇らしく思ったものだ。
それがどうだ?反対した奴は、政界に復帰できないように完全に手を廻してしまった。何だか、民族殲滅をはかるナチまがいの醜悪さだ。これなんかは、まさに揉め事のいちばん人目に曝して欲しくない部分だよね。
私事に話が飛ぶけど・・・もともと、オレが書くものに揉め事はほとんど書き込まれていない。無意識だけど、魂が通い合うところに物語を育ててきたという傾向がある。
いま、オレはまるで書けなくなってしまった。以前は無意識であっても、揉め事を含む物語を書かなかったけど、今は、あの頃と比べて、比較にならないほど敏感で、揉め事に嫌悪感をおぼえて我慢がならない。何かを書こうとすると、人間や物事のバランスに微妙なひずみが見える。そこに力が及ぶと摩擦が生じ、揉め事が芽生える。世の中に揉め事が溢れている。何も物語にしてまで、世の中をややこしくしなくてもいいではないか・・・そう思ってしまう。
揉め事のない世界ってないものだろうか・・・?世界はそんなに甘くはないよという声が聞こえてくるようだけど、みんながほんの少し、ホントにほんの少し利口になり、我を張らず、譲る心を持ったら、世の中、随分住みやすくなるんだけどねェ~。
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