2005/9/13 火曜日

9月13日(火)/晴・残暑

カテゴリー: 未分類 — zen @ 17:07:20

後から後から台風がやって来て、今年は本当に不安定な天気が続いています。予報では今日も晴れということでしたが、何と、真夏よりも厳しい陽射しが降り注ぎ猛烈な暑さになりました。
毎年、目に見えて気象が不穏になってきます。こういう気象の異常は、以前はエルニーニョの影響といっていましたが、久しく聞きませんね。
最近は地球温暖化が原因といいます。
何であれ、人間は抽象的な因果関係を結びつけて異常の原因を納得し、安心してしまってているようです。何故抽象的かというと、これだけ状況が逼迫しているにも拘わらず、地球規模で温暖化を阻止し、地球を救おうという活動がさっぱり見えてこないからです。
北極・南極の氷の状況は詳らかではありませんが、以前も書いたように、ニュージーランドの氷河が10年前の写真と見比べて、氷河の最下端が数百メートルも せり上がっていたことに驚きました。聞くところによると、ヒマラヤなどの氷河にも同じような現象が見られるそうです。ニュージーランドでは、百年後には氷 河が消滅するかもしれないと危機的状況を訴えていました。
『カテリーナ』は救援の遅れに端を発し、人種的差別による救援活動の無関心、さらにはイラク派兵による対応すべき軍隊の人手不足へと議論が進んでいます が、ハリケーンや台風、サイクロンとその災害の規模が年を追って世界的に巨大化している現実が地球温暖化とはなかなか結びついてはきません。特に、水没に 危機感を募らせている海面水位よりも低い都市は、余りにも逼迫した問題なのに、その切実な悲鳴がさっぱり聞こえてこないのはどうしたことでしょう。誰も が、或いは報道機関が対岸の火事とたかを括っているのだとしたら大きな問題です。
話が飛躍しますが、『カテリーナ』で罹災した貧困層の住民が商店や民家から略奪を始めたというニュースには本当に驚きました。アメリカという国ほど人種の入り組んだ国はありませんし、そこに生じる経済的、教養的格差の大きな国も他にあまり例を見ません。
これでは不毛な内戦が続く未開国並みです。
あァ~、やっぱりこんな事態が勃発してしまったか!と暗澹たる気持ちになっていた時、後日、別のチャンネルで食料や衣料を避難民に配っている略奪者が報道されました。ちょっと救われた気持になったものの、よくよく考えてみれば、これこそが報道のマジックです。
或る小さな出来事が世界規模で報道されると、その場所では、そういう事が恒常的に行われているかのように感じられます。また、それを否定する一部の報道に 触れれば、全ての略奪者はねずみ小僧ならぬ義賊でもあるかのように私たちの目に映ります。報道とは、難しいものです。そして、使い方一つで、とんでもない 危険をはらんだ凶器にもなり得ます。報道機関の端っこで慎ましく仕事をしてきた私は、報道の凄さも難しさも、そして危なさも承知しているつもりです。
今こそ報道の力が試され、そして期待されている時代ではないかと思います。地球温暖化を食い止めるキャンペーンを、日本中の全ての新聞社、テレビ局が手を 取り合って始め、それを世界に発信してはどんなものでしょう。官が音頭をとらないと何も始まらない日本ですが、小泉さんの言葉ではないですが、こういう キャンペーンこそは民が先行して国を動かしてこそ意味があることです。このキャンペーンには衆参議会の決議も、ましてや解散総選挙も刺客候補の擁立も新党 結成の必要ありません。私利を越えた博愛の精神と、地球を救うという強い気持ちだけを持ち寄れば出来る事です。
もう一つ話題が飛躍しますが、この夏の「クールビズ」にしても、環境庁の「始め!」の号令だけではなく、その結果、私たち国民がどれ程のエネルギー節約に 貢献したのかを報道機関がいろんな角度から緻密に取材し、国民にフィードバックするべきです。何だか、内閣官僚だけが無理してノーネクタイを押し通したよ うな印象も拭えませんが、本当に効果があったのでしょうか?尻切れトンボの号令じゃなく、スタートしたのなら、ちゃんと結果を知らせて欲しいものです。良 い結果が出たのであれば、それこそが次の活動のエネルギーになるのですから。

2005/9/3 土曜日

9月3日(土)/ 晴・残暑32℃

カテゴリー: 未分類 — zen @ 0:49:37

特別嗅覚が鋭い訳でもないのに、僕は匂いにはとてもこだわりがある。
作品の『癌』にも書いたけど、僕は若い頃、実際に肺結核で3年間も療養生活を送った。その中で、隣のベッドの匂坂君と、結核病棟には固有の匂いがあることを発見した。僕らは、病気にはそれぞれ固有の匂いがあるという仮説を立て、いろんな病棟を彷徨い歩き、いくつかの事例でそれを立証したりして病院生活の無聊を慰めていた。
勿論、科学的に検証した理論ではないから、アカデミックな性格のものではない。しかし、病気固有の匂いというかなり個人的な感覚(嗅覚)に負うこの理論には、匂坂も僕も、何か確信みたいなものを感じていたことは確かだ。
小説の中では、主人公が癌で入院中の叔父を見舞い、その折感じた特別な匂いを癌固有のものと記憶する。そして或る日、自らの口臭にそれと同種の匂いを感じ、自分が癌に冒されていることを納得するという筋書きになっている。
凡そ、自我というものにしかるべき拘りをもつ人が、いちばん関心を払う匂いは自らの体臭ではないだろうか。
僕が若かった頃、自らの人生の美学として極めて強く意識したものにダンディズムとでもいうべきものがある。例えば、「仕事とは、生きるための手段の一つに過ぎない。だから、夢を犠牲にしてまでやり遂げるべき仕事というものは存在しない」などという独善的な信念の総称だ。そうした美学の対極にあるものが不快な体臭だった。
病気固有の匂いの他に、随分昔から、僕は老人固有の匂いというものを強く意識していた。その匂いは、言葉として当然「老臭」というと僕は思い込んでいた。しかし、或る時、それを話題にして「老臭」という言葉をいったら、その人はそんな言葉は聞いたことがないという。僕はその時はじめて広辞苑を引いてみた。成る程、辞書に「老臭」という言葉はなかった。でも、そういう臭気が存在しているのに、それを言い表す言葉がないなんておかしいじゃないか!そんな憤懣をもらしていたら、最近になって、差別語的な配慮で、年寄りに遠慮した「加齢臭」という言葉がお目見えした。
僕は結構多くの文学作品を読んでいるが、老人固有の臭気について書かれたものはほとんどない。僅かに、辻仁成の「ピアニシモ」(スバル文学賞作品)に、かなり陰惨な表現で死臭と同列視して書かれているのが見える程度だ。
凡そ体臭とは、自分では気づかないものだ。身近に、それを告げてくれる人が居なくては自分では分からない。
男女に関係なく老人の皮膚にはノネナールという不飽和アルデヒド(脂肪酸)が分泌する。それが分解し、さらに、体内に活性酸素が発生して悪臭のガスを生成し、青臭さと使い古した油の匂いが入り混ざった加齢臭になるのだそうだ。
確かに、辻仁成の記述ではないが、「加齢臭」は、個人差はあるものの、かなり不快な臭気であることは確かだ。極端なケースでは、カメムシに刺激を与えた時に発する臭気に匹敵するという実験例もあるそうだ。それにもかかわらず、本人が気づかないのだから事態は深刻だ。
他人では抵抗があろうから、配偶者や身内や、或いは掛かりつけの医師などが、遠慮せず明確に本人に忠告することが必要ではないだろうか。僕のパートナーは、日々の僕の体臭について適切な感想と助言をしてくれる。勿論、彼女の体臭で気づいたことがあれば、僕も率直に感想をいう。
そしてまた、その臭気に対処した医学的処置というものを、社会がもう少し真剣に考えてみてはどんなものだろう。健康面の悪影響や、他人に被害をもたらすというものではないとはいえ、人には尊厳を保って生きる権利がある。
当然のことながら、僕も真剣に加齢臭対策に取り組んでいる。サプリメントや専用の石鹸、シャンプーなども市販されているが、しかし、それらを常用するにはかなりの経済的負担を覚悟しなくてはならない。
老いてなお維持されるべき人生のダンディズムというものがある。若い頃のそれとは随分様変わりしてきてはいるが、せめて自らの生き様に自信をもって生き、高齢といわれる今を人生のハイライトとしたいものと意気込んでいる。

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