2005/10/14 金曜日

10月14日(金)/晴のち曇り

カテゴリー: 未分類 — zen @ 16:54:18

自然の只中に身をおいて、人は人生に疲れた心を癒すという。
自然の内ふところに抱きとられ心を開くと、酷使したバッテリーを充電するようにどこからともなく身内に活力が満ちてくる。
都会の喧騒を離れ、林の上を吹き抜ける風の音を聞き、青い空を悠然と流れる雲を仰ぎ、林間に鳴き交わす鳥の声に耳を傾ける時、或いは、遮るものもない海原の彼方に夢を馳せ、白々と磯に砕ける波飛沫にかすかに頬を濡らし、海風の中を軽やかに飛翔するカモメに口笛で呼びかける時、人は大らかなこの自然を本然的な故郷なのだと確信する。
自然は、何も人里離れてのみあるわけではない。都会の外れの河原や目と鼻の先の里山にだって、人跡を感じさせない自然が残っていて驚かされることがある。
先日、掛かり付けの医者に、少々肥満の傾向があるので運動をするように勧められた。血圧、血糖値、コレステロール等々が高めであり、さらに歳をとってからの肥満はいろんな生活習慣病を誘発するというのである。
運動のいちばん手近なものがウォーキング・・・とにかく、一日に最低一時間は歩きなさいという医者の忠告に従い、気が向いた時だけではあるが不承不精歩いている。喘息の持病がある私にとって、歩くことはそう楽なことではない。しかし、それを往々怠りながらも続けられるのは、途中から里山に分け入り、そこの窪地に田畑を耕す農夫だけが通う山道を散策する楽しみがあるからだ。はじめ私は、今時こんな細々とした道があることを訝った。若しかすると、誰かの住まいに通ずる私的な道なのではないかと。しかし、それにしては一般道からいとも自然に導かれるように細道は続いていた。まあ、どこかの家の前に出たら戻ればいいことだ。
歩くうち、差し掛かる木立は仄暗く辺りを覆い、時々、高い梢辺りから柔らかな木洩れ日が地面に斑模様を描く。足元にはドングリが散り敷き、つぶらな実をあらわにした栗イガもあちこちに見える。さらに、やぶの中のカエデの幹に樹液が黒い筋を描き、そこには二匹の見事なカブトムシが蜜を食んでいた。私というものの核心的な何かが、この気が遠くなるような静けさの中で深く陥没してゆく心地好い放心感、濃密な草木や土の匂い、チラチラと頬を撫でる木洩れ日の仄かな温もり・・・・・自然の気が満ちて私に降り注ぐ。私は急に幸せな感覚に包まれていた。

かつて私は、航海記『その先の海』の冒頭で、「人間も自然の一部ではないか。文明からどれだけ遠ざかれるかは分らないが、自然の側に自分の肩を寄せて生きられないものだろうか・・・」と書いた。つまり、もっともっとピュアな自然に人は憧れる。極端かもしれないが、私は自らの航海にそれを求めていたはずだ。
1997年、私はフレンチ・ポリネシアにいた。マルケーサス諸島の牧歌的な風土と現地の人々のフレンドリーな人情に包まれて数週間を過ごし、やがて悪名高いツアモツ環礁にやって来た。波に洗われた環礁が大きな湖ほどのラグーンを作り、環礁の連なりの中に小さな島が点在した。島の風下にアンカーを打ったとはいえ烈風を遮るには島は余りに小さく、それでも外海の荒波からはヨットを守ってくれた。
風は常時25ノット(約13m)で吹き募り、ラグーンの中とはいえシュノーケリングを楽しむには心穏やかとはいかなかった。10日間ほども碇泊しただろうか、他のヨットたちもこの強風には痺れをきらし、もうツアモツ環礁はパスしてタヒチへ行こうということになった。
チャートには記載がないコーラルヘッドにアンカー・チェーンが巻きついて錨が揚がらず、言葉に尽くせないほどの苦労をしたり、然るべき潮時に合わせてしか通過できないパスで座礁しかけたり、沸騰するような潮波にもまれたり・・・いい想い出もないまま、私はマニヒ環礁を後にした。
5日間ほどの航海でタヒチに着き、久し振りにパピエテの岸壁に繋留し、車の往来と人の多さ、そして道路の交通信号機に目を見張った。パピエテの街はプチ・パリといわれるほど表通りは垢抜けている。臙脂色の日除けを差しかけた表通りのカフェは私たちヨッティーの格好の溜り場になった。
或る日、《ファーザー》というヨットの日本人青年のKenがパピエテに到着し、街を歩いているのに出会った。彼とはヌクヒヴァで別れて以来なので、互いにそれ以降の足跡を語り合った。その中で、Kenは、ツアモツ環礁群の名もない小さな環礁を入り、その無人のラグーンに4日間碇泊した話をしてくれた。
「初めは、この世界全部がオレのものって感じでしたよ。やっと憧れていた本物の自然がオレのものになったと本当に痛快でした。目が醒めりゃ、猫の額ほどの陸地に上がって椰子の実のジュースを飲み、シュノーケリングのついでにイセエビや魚をとって食べ、デッキに寝転んで本を読み、いつの間にかオーニングの日陰で眠っていました。日が沈むともう真の闇ですからね、夜は早々に眠りました。夜中に目を覚ますと、環礁に打ちつける外海の怒涛が砕ける音がいていました。2日間はあっという間に過ぎました。快晴だった青空が雲に覆われ出したのは3日目の午後でした。次第に風も勢いを増し、夕方には嵐になっていました。風速は20mを越え、ラグーンを越えて外海の波も打ち込んできます。そして、月も星もない闇夜がやってきました。たった一本の細いアンカーロープが切れたら、ヨットはひとたまりもなく木っ端微塵です。オレは僅かに椰子の木が生えた小島に泳ぎ着けばどうにかなります。それでも、チャートにもほとんど記載のないこんなラグーンに来るヨットなんかいませんから、助かる見込みなんかありません。どうしても船を守らなければと必死でした。疲労困憊の果てにやっと夜が明けました。何とか荒れ狂う夜を凌いだのです。そして、岩礁だらけのパスの海底が見える正午ころ、オレは、本物の自然なんかに憧れた自分のおごった心を叱りつけながら環礁を抜け出ました。人間は自然の懐で癒されるっていうじゃないですか。でも、本当でしょうか。何だか、自然みたいなもの、偽の自然、或いは、いつでも逃げ込める文明をすぐ片側に置いた自然・・・そんなものに人間は憧れているんじゃないでしょうかねェ」
Kenほどではないにせよ、私もそれなりに自然の脅威に曝されてきた。そして今、洒落たカフェの椅子に深々と腰を落ち着け、Kenと向かい合ってアイスクリームを食べながら、排気ガスの匂いが立ち込めるパピエテの人と車の雑踏に、訳もなく安堵している自分を見ていた。「自然の側に自分の肩を寄せて生きられないものか・・・」そんな甘い夢に酔っていたかつての私自身が、何だか遠い昔の残像のように思い返された。
「すぐ逃げ込める文明を片側においた自然、作られたリゾート、虚構のパラダイス・・・その辺りが人間の限界かも知れないね」私たちは、そう呟いて、メイン・ストリートの向こう、パピエテの岸壁に舫うそれぞれのヨットに視線を投げかけた。

2005/10/4 火曜日

10月4日(火)/曇り

カテゴリー: 未分類 — zen @ 18:00:20

気象図で見れば大陸から秋雨前線が東を伺い、いよいよ秋も闌るかと思えば、またまた真夏を凌ぐ猛暑がやって来る。相も変わらずおかしな天気が繰り返し、地球温暖化だの異常気象だのとニュースを賑わす。
ニュースといえば、先日、日中友好事業の一環として、中国で日本語の弁論大会があったと報じていた。
興味深く眺めていると、日本語を学ぶ学生たちが、見事な日本語で日本の美点を論じていた。「努力」という言葉が、日本では最も人気の高い言葉であり、日本人は物事に前向きに拘わる国民性を有するとか、「もったいない」という観念を日本人に学んだとか、うっかりすると私たち日本人が忘れかけているものを思い出させてくれるような内容だった。
昨今の反日感情を鑑みるに、中国にもこういう観点で外国(日本)を見ている人々もいるのだとホッとする感情になった。
しかし、よくよく考えてみると、こういう事がニュースになる時代的な素地とは何だろう。よくいう事だが、犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになるというように、稀なことだからこそ私たちの耳に届くという一面がある。つまり、日中友好を促進しようと頑張っている人は勿論いる訳だが、それはむしろ稀であることに他ならない。
日本人のほとんどの人は、人種的差別や反日感情に曝された経験はない。しかも、平和慣れして能天気な日本人は、外国を旅行しても客としてもてなされることが、あたかも日本人が世界中から極めつけの好感をもって迎えられていると錯覚しているから始末が悪い。
かつて、私がヨットでサンフランシスコを訪ねた折、入港しようとしたマリーナで入港を拒絶されたことがある。それは、ルールで外部者は入港出来ないとか、他の客の応対で忙しいとかいう種類のものではなく、不思議な蔑視感、疎外感、無視された感覚だった。
私だって初めての経験だから、その時は単に不快感を覚えたという程度の感想だったが、後日、現地に住む日本人に、それが人種差別なんだと言われ、なるほどと納得したことがある。
また、オーストラリアのバンダーバーグという小さな街を歩いた折、広場に古い戦闘機が展示されているのを見た。近づいて観察し、現地の人々に話を聞いたりするうち、周囲の人々の目が尋常でないことに気づかされた。その飛行機とは、第二次大戦の折、日本軍と闘った飛行機だった。彼らの目には敵対感とは言わぬまでも、明らかな困惑の色が伺えた。
さらに、ブリスベンの街中に立派な戦没者慰霊公園があって、歩きつかれた私は、ベンチに腰を下ろして昼食のフィッシュ&チップスの包みを開いた。その私を取り囲んだ目は、明らかに敵対意識を露骨に示し、お前たちの来るべき所ではないと抗議しているようだった。聞けば、僅か数年前までは、アンザックデー(退役軍人の日)に、日本人は危険を感じて一日家に閉じこもっていたそうである。
他に、オーストラリア北端のホーン島では、ホテルが開設しているミュージアムがあって、その収集品はほとんどが日本軍の兵器の残骸だった。大破したゼロ戦や上陸用舟艇や、醜く赤錆て何やら想像もつかぬ不思議な兵器に溢れていた。
そして、一角には大戦中の写真が所狭しと貼りめぐらされていた。
一人の青年が私に近づくと、いきなり日本人か?と尋ねた。そうだと答えると、有無をいわせず私の腕を掴み、写真のコーナーへ引っ張って行った。そして、一枚の写真を示し、お前たち日本人は、我々にこういうことをしたのだ!と怒気をこめて叫んだ。その写真とは、日本の将兵が日本刀を振りかざし、目隠しをして前屈みに蹲るオーストラリア兵を、いままさに両断せんとする一瞬を写したものだった。
私たちは勿論、一言も言葉がなかった。立ち去った男を見送って、同行したヨット・シーマの松浦氏と、「今度国籍を聞かれたら、コリアンと答えようかね」と呟いた。
その他にも、私はいろんな所で人種差別や反日感情のささくれた感情にさらされた。そして、日本は決して世界が無条件で門戸を開いて歓迎されているという国ではないのだと肝に銘じたものだ。
それにしても、そうした感情にさらされる遥か以前、私はサンディエゴに住む或る日本人からショッキングな話を聞いていた。彼は奥さんと二人だけで大きな家に住んでいたので、いくつもの空き部屋があり、何人かの学生にルームシェアといって部屋を貸していた。
その中に中国人のとても真面目な青年がいて、或る時、彼の奥さんに、「僕たち中国人の学生は、何を目標に勉学に励んでいるか分かりますか?」と質問したそうだ。勿論、分かるわけもなく、奥さんは、「何を目標にしているの?」と反問した。そうしたら、その学生は、「かつて日本が中国を植民地化したように、僕らは日本を占領して植民地にし、母国の人々を幸せにします。それが今、僕らが一生懸命勉強している目標なんです」と、全く臆することもなくいい切ったという。奥さんは不気味に感じ、亭主にあの学生を追い出して欲しいと迫ったそうだ。勿論、そんなことは簡単に出来る事ではないので、彼は大いに弱っていた。
しかし、これはある種、思想といっていいものだろう。
彼の言動は、中国の留学生全てのものでないことは確かだ。また、一流大学といわれるUCSDに学ぶ彼が、知能的に劣るはずもなく、当然ながら一般的にいう知識階級に属する青年である。その彼が、日本人に向かって日本を占領し植民地にするという。これって、一体何だろう?
平然といい切ったのは、それが彼らの常識だからだ。無理して、背伸びしていっていることではないというところが恐ろしい。常識というなら、その思想の背景にはそうならしめる教育がある。反日感情は、彼らの個性からではなく、教育で培われたものなのだ。だから、インターネットで反日デモを呼びかければ、たちまち町中を埋め尽くすほどのデモ学生が結集し、昂じれば暴徒にもなるのだ。
やみくもにデモをし、暴徒化して日本商社にレンガを投げつけ、差し当たってのエネルギーを発散しつくしてみたら、何やら教育で身につけた常識の向こうにバランスの歪みが見えた。暴徒化することの良心の咎めではなく、自らのバランス感覚が感得するひずみ。全体主義的な教育も、それが培った常識も、このバランス感覚が目覚める余地さえ残っていれば決して絶望的ではない。
暴徒が一人、二人と脱落し、何かが違うんじゃない?と大衆が問いかけだしたところに、日中友好弁論大会が発生する素地があったのかも知れない。稀なことをニュースが取り上げるとはいえ、日本人に耳ざわりの良い弁論の中身ではなく、偏向した全体主義的教育が露呈したバランスのひずみに気づいたことの稀有がニュースになったとしたら、これに勝るよろこびはない。

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