■シルバーロマン・シリーズ/第三話

薪能の女

薪能の女:挿絵1

篝火が山部信行の左頬の古傷を深く抉って見せていた。眇められた眸にもまた火影が揺れ、そこだけ切り取ってみれば凄愴の風貌と見えなくもない。

舞台では今、破から急に転じた拍子にのって松風が行平に寄せる思いのたけを舞っている。それは息もたえだえの悲傷を内に秘めた物狂いの舞だった。そしてまた、その悲しみの情は、忘れ難い或る想いと重複して彼の内を流れていった。

かつて信行に熱い想いを寄せたまま、一度も抱かれることなく病床で朽ちていった女がいた。・・・とうの昔、死ぬことの覚悟はできているけれど、あなたに女として扱ってもらえなかった、それだけが悲しい・・・と涙を浮かべて女は逝った。彼の内で女が残した悲傷と松風のそれが濃密に重なっていた。

目付柱をはさんで脇正面に紬の女がいた。後に引き詰めた髪が面長な顔を小さく見せ、凛として端正な着こなしが潔さを思わせる女だった。時折、彼女はハンカチで目頭を抑えた。その仕種が、信行の感情を熱くした。

女は吉野冴子といった。戦後生まれの彼女には無縁のことであるが、生家はかつて爵位の家柄だった。世渡りに不器用な父親は天地が覆るような終戦期の激浪に呑み込まれ、家はあえなく没落し家族は離散していった。

冴子がまだ中学生だった頃、使用人の倅で勉強をみてくれる少年がいた。高校受験を控え、大学生の彼は、やがて正式に彼女の家庭教師として家に出入するようになった。二人は思春期を互いに支え合いながら美しく成長していった。彼女が大学受験に取り組む頃、彼は大学を卒業し商社に就職した。そして彼は、彼女が大学を卒業したら結婚して欲しいと求めた。それは、彼女にとって極めて自然なことに思えた。

しかし、冴子の父は激怒した。彼にとって使用人の倅はまた使用人でしかなかった。終生、父親は家柄という妄執を離れることのできない人だった。

やがて青年は海外勤務を命じられ、大学二年の彼女を残してイタリアへ発った。そして彼女は学業を終えると彼を追って家を出た。

ミラノでの二人の暮らしは薔薇色に輝いて過ぎていった。三年目に差し掛かる頃、彼は冴子との同棲生活を歪曲に取り沙汰されて商社を追われた。一人娘を奪還したいと願う老父の蒙昧な画策のあとが伺えるスキャンダルだった。

優しく理知的だった彼が、まるで別人のように人が変わってしまった。どう慰めてみても、荒んだ心は正気に戻らなかった。そればかりか、彼女の慰めは却って彼を追い込んで行くかに見えた。一年ばかりの修羅の日々を経て、冴子は、自分こそが彼の人生を狂わせる元凶なのではないかと感じ、ひそかに彼のもとを去った。

失意の想いに打ちひしがれて帰国してみると、既に母は他界し、父は廃人のように病院のベッドに臥し、さらに家屋敷は狡猾な詐術によって人手に渡っていた。僅か四年の歳月にして、それは目を覆うばかりの凋落だった。

帰るべき場所を失って呆然とした冴子は、戦前から家の執事をしていた老人の奸計に乗せられ、いつの間にか、十年間の奉公という名目で或る実業家の世話を受けることになった。何もかもが滅亡する者に仕組まれた罠と見えた。しかし、冴子には企みに立ち向かう力も智恵もなかった。彼女が二十七歳のことだった。

イタリアの彼のもとへ日本を飛び出して、既に十七年の歳月が流れていた。彼を窮地に追い込んだという負い目に苛まれながらも、彼女は今、眩いばかりに幸せだったミラノの日々を昨日のことのように思い出していた。
松島や雄島の海士の月にだに、影を汲むこそ心あれ、影を汲むこそ心あれ・・・。曲にのせて若女の面が翳り白水衣の松風の亡霊が行平と交わした愛の想いをせつなく舞うように、彼と過ごした日々が心に甦って冴子は我知らず頬を濡らした。

橋掛りを行きつ戻りつして、やがて松風が鏡の間へ消えた。冴子は大きく息をついて我に返った。顔を巡らせると、正面の客席から彼女を凝視する信行の視線と正対した。彼女は、その目に自分と同質の悲傷を読み取ったと思った。二人は互いの眸に漂う哀愁の彩りを見惚れるように眺め合った。

鎌倉のさる素封家の主が米寿の祝いに仕舞の会を催したのが、薪能から五ヵ月ほど過ぎて春の気配も色濃い三月だった。その席で、信行は冴子に再会した。

名も知らぬ者同士が路地で出会い、互いに道を譲って片側へ寄った。その緩慢な動作の中で、目だけが臆することもなく互いを見つめ合った。やがて冴子が会釈し、僅かに頬を染めて傍らを通り過ぎた。仄かな女の香りだけが馬酔木の植え込みの辺りに残っていた。

主に祝いを述べ、その席を辞して去ろうとする時、翁は信行を呼び止めた。 「きみに紹介したい人がいる。既に顔見知りらしいが、見受けるところ語らう糸口が見つからんようじゃ。年寄は地獄耳というが、わしの目はまだまだ耳に劣らんぞ」
翁は女中に何事かを囁いた。暫くすると冴子が現れ、
「おじいちゃま、何かご用ですか?」といい、傍らの信行に気づいてはっと息を呑んだ。
「ほらほら、そういうことじゃ。若い者は遠慮でいかん。さあ、わしが互いを紹介するから、気が合うものなら仲良うするがいい」翁は二人をからかうように破顔していった。
「冴子、こちらは山部信行君じゃ。このご仁は風体こそ何やら恐ろしげだが、なかなかの風流人じゃ。最近は歌人として名を売っておるようだが、もともとは禅林の居士、武道家、書家、それに能楽にも造詣が深い。何を生業としておるかわしは知らんが、何ぞ事業のようなものをやっておられるようじゃ。尤も、自由無碍な生き様に呆れ返って、奥方には五年ほど前に逃げられたそうじゃがの。

さて山部君、これは吉野冴子といっての、わしの姪じゃ。なかなか面白い人生を歩んでおる。身内や世間はいろいろいうが、わしはこの子の囚われない生き方が好きじゃ。まあ、折があればゆっくり語らうのも一興かも知れん」

主はそういうとくるりと体を巡らし、他の客と話し始めた。取り残された二人は、連れ立ってその場を離れた。しかし、能や和歌の話は、初対面の者同士としてどこまで掘り下げて語るべきか計りかねた。会話は、互いの内面に深い関心を抱きながら、その堰を突き崩す手立てもなく三十分とは続かなかった。

伊豆修善寺の或る旅館に指月殿という能舞台がある。豪壮な庭園に大きな池があり、その中ほどに島を浮かべて舞台が設えられている。観客は池の水に隔てられて舞台に対し、贅を尽くした趣向で能をみせることでファンも多い。

毎年、旅館の主に招かれながら、信行はあの王朝風な奢りが肌に合わず、数年前に一度観せてもらって以降訪れることはなかった。

今年の薪能は四月二十七日だった。招待の書状を手にした時、指月殿に演じられる能の幻影に透かして、彼は冴子の面影が朧に見えた気がした。信行は、今年は修善寺へ出掛けてみようと思った。

紀尾井町のホテルのロビーで、彼は文芸誌に載せる和歌の評論について打ち合わせを済ませた。時刻は正午を少し回っていた。修善寺へ向かう前に昼食をとろうと思い、彼はロビーを横切ってパーラーへ向かった。

目の前を行く女性を追い越した時、彼は吾が目を疑った。女は冴子だった。着物姿しか知らない彼女が寸分の隙もない白のシャネルスーツを着こなしていることが、信行にとって奇異に思えた。気づくと、彼女も小さくあっと叫んだ。
「冴子さん、本当にあなたですか?」彼は驚きをこめて尋ねた。
「いや、こんな所でお目に掛かることも予期せぬことだが、それ以上に洋服姿のあなたに驚いているのです」
「洋装は似合いませんか?」彼女は僅かに小首を傾げるようにしていった。
「いえいえ、そんなことはありません。着物姿に感嘆していたのに、それに勝るとも劣らない洋装のあなたに只々驚いているということです」
「まあ、お上手ですこと」
「いや、全くの本心からいっています。それはそうと、こちらに何かご用がおありでしたか?」冴子は口の辺りを掌で覆って可笑しそうに笑った。
「実は私、このホテルのファッション・アドヴァイザーをしておりますのよ。貸衣装が主ですが、従業員の服装のチェックや改善などをするのも仕事なのです。ホテルには週に三日間出勤しております。ここは、いわば私の職場ですの」
「そうでしたか。いや、うれしい偶然です。ここを打ち合わせの場に選んだ編集者に感謝しなくてはなりません。それはそうと、私はこれから昼食をとります。ご迷惑でなければごいっしょに如何ですか?」
彼はそういいつつ、常の自分らしくもない饒舌を訝った。思えば、修善寺へ出発する間際、能舞台にオーバーラップして幻影をみたその張本人が忽然と目の前に現れるという偶然に興奮せずにはいられないのは当然のことだった。
食後のコーヒーを飲みながら、彼は修善寺の観能の予定を話した。彼女は指月殿の噂は聞き知っていたが、まだ訪れたことがなく、是非一度行ってみたいといった。
「舞台は明日の夕刻です。私はこれから出掛けて今夜は向こうに泊まります。ご予定に支障がなければお出でになりませんか」
「行けるかどうか、考えてみますわ。行けたらきっと素敵でしょうね」遠くを見るような眼差しで彼女がいった。信行の観能は常に一人だった。しかし今、初めて心に適う佳人と共に能を鑑賞することの豊かさを彼は思った。

明日の観能は隣に冴子がいるかも知れないという期待に信行の気持は昂揚した。西湘バイパスから真鶴道路を抜けて熱海へ続く海沿いの道を疾走する車に、潮の香りを含んだ春風が溢れた。彼はハンドルに置いた指でリズムをとりながら音楽を口ずさんでいた。

熱海南端のトンネルを過ぎ、車は急角度に左折して熱海新道へ入った。彼は、車の往来も疎らで、折々の素朴な四季が楽しめるこの道が好きだった。時には大きく曲がった道の傍らに車を停め、目の下の熱海の街や遥かな相模灘を眺めた。ほんの少し都会の喧騒を離れただけで爽やかな空気に季節が薫ることもあり、夜間には、街の灯の洪水に息を呑むこともあった。

しかし、今日の彼は、上天気の相模灘を包む春霞の彼方に、新しく拓けてゆくものの胎動を見ていた。それは、随分永い間忘れていた心の熱い昂りであり、能舞台にオーバーラップして見たあの幻想へと繋がっていた。

修善寺の宿では主が直々に彼を出迎えてくれた。二人は久闊の挨拶を交わし、主に案内されて路地つたいに離れへ向かった。

暫く雑談の後、主はごゆっくりお寛ぎくださいといって下がった。信行は浴衣と茶羽織に着替え、一服して内風呂へ向かった。檜の香りが芳しい浴室は、湯船の縁を越えて清透な湯が溢れていた。湯に体を沈め、のびのびと手足を寛がせると、広々とした窓の向こうに黄昏の庭が見えた。残照の中、所々に点る庭園灯に仄かに浮き上がって手入れの行き届いた庭木があり、その向こうに能舞台が見えた。彼はその舞台に冴子を立たせてみた。どのような曲目が似合うだろうと思案することは、彼にとって心ときめく空想のひと時だった。

薪能の女:挿絵2

食事を終えると、主が茶を一服差し上げたいと部屋を訪れた。形に囚われない茶事を終えると、二人は暫し最近の能の話題や明日の番組について語らった。

主が部屋を辞すると、彼はパソコンを取り出して締め切りの迫った原稿の執筆にかかった。文言に詰まって腕組みして思案している時、電話のベルが鳴った。

受話器をとって応じると、
「吉野でございます」と冴子がいった。
「夜分、お宿までお電話して申し訳ございません。実は、明日のお能のことでございますが・・・」彼女がいいよどむようにいった。
「やはりお出でになるのはご無理でしたか。残念ですがやむを得ません。話が急でしたからね」彼は落胆を隠し切れない口調でいった。しかし、受話器からは含み笑いが聞こえてきたようだった。信行は、何だろうと訝った。
「ごめんなさい、笑ったりして。実は私、いまあなたと同じお宿におりますのよ。この電話は内線でかけております」
「本当ですか!」彼は小さく叫んでいた。
「今、何をなさっていらっしゃいますか?もし夜分お邪魔でなければご挨拶に伺おうかと存じます。何しろ私、たった今着いたばかりなのです」
「お邪魔なものですか。ウエルカム、ええ、ウエルカムですとも!」
「ありがとうございます。それでは、じきに」彼女はゆったりとした口調でいって受話器を置いた。この鷹揚な話し方は育ちだろうか。彼女の語り口を聞く度に、彼は自らの粗野な部分が見えてくる気がした。

彼はパソコンや資料を片付け、如何にも所在無くただ寛いでいたという風に部屋を拵えた。帳場に電話を入れてビールを注文し、テレビをつけて広縁の籐椅子に腰掛けて夕刊を広げた。

十五分ほどすると、部屋の入口で、
「ごめんください」という声がした。
「どうぞ」と応え、彼は夕刊を畳み読書用の眼鏡を外して椅子を立った。

入ってきたのはビールを運んできた女中だった。拍子抜けして椅子に戻ろうとすると、女中の後ろに隠れるようにして冴子がいた。どうもこの女は、見かけに寄らず茶目っ気の旺盛な人のようだ。
「お出でになるにしても明日とばかり思っていました。よく来られましたね」
「せっかく修善寺へ行くのに慌しく日帰りというのも趣きがないと思い、あれから思い立って五時に東京を出て参りました」

彼は客間の中央の座卓に座布団をのべて彼女をうながした。藍鼠に白い蚊絣の結城に翡翠色に小花をあしらった帯を締め、彼女は薪能の時と同じく髪を後につめていた。女中がビールの盆を襖脇に片寄せて置き立ち去ると、冴子は、
「お寛ぎのところ、突然お邪魔をして申し訳ございません。先ほども申し上げましたとおり、日帰りも味気ないと存じ、それに山部様がおいでになると思うと心強く、つい気軽に飛び出して参りました。本館にお部屋もとれましたので、ご挨拶だけ申し上げたら早々に引き上げます。どうぞご容赦ください」
折り目正しく挨拶を述べると、彼女は上体をまっすぐにして彼を直視した。彼は、その視線を眩しく受け止め、
「どうぞ堅苦しい挨拶は抜きにしてください。私としても退屈していたところです。寧ろ、あなたが突然お出でになったアイディアに大いに感謝しています。ここは流れの音が僅かに聞こえるだけで静か過ぎます。夕食が済めば、後は風呂に入るか寝る他に方法がありません。さあ、ビールでもやりましょう」といった。

彼女はビールをグラスに受け、一口だけ飲むとテーブルに置いた。そして、興味深げに部屋の作りを眺め、
「このお部屋の作り、とても手が掛かっておりますのね。ちょっと拝見してもよろしゅうございますか?本当は私、とても野次馬ですのよ」といった。
「構いません。どうぞご遠慮なく」

彼女は広縁に立ち夜の庭を眺めた。風呂場からとは異なった角度で木の間隠れに能舞台が見えた。
入口の控えは三帖、客間が十二帖で、客間には逆勝手の床の間があった。本床には八一の書が、左の脇床には好事家なら垂涎の的ともいえる良寛の手紙を軸装した茶掛けがあった。手紙の内容は米と酒を頂戴した礼状のようだった。脇床は書院に続き、書院は庭へ向かって開いた広縁に面していた。本床の右は違い棚と戸袋で、本来なら刀掛けや鎧櫃、硯箱などが収められる場所だが、宿の主は先刻、そこから茶道具を持ち出してきた。威儀に適った武家屋敷風の書院造りだった。

客間の奥は襖で仕切られた八帖の寝室、広縁の端の引き戸を開けると左側に一段降りて三帖の水屋があり、一間ほどの渡り廊下を進むと内風呂に通じていた。彼女はそれらをつぶさに見物して歩き、
「伝統的でとても素晴らしい作りですこと。それに、大きな檜のお風呂が素敵ですわ。私のお部屋はバスタブですのよ」といった。
「よろしければ、こちらで湯をお遣いになっては如何ですか。湯上りのビールもきっと美味しいですよ」
「そうも参りませんわ」恥らうように彼女がいった。二人は座卓をはさんで座ると、彼はグラスにビールを注いだ。そして、彼は、「明日のお能に。そして、冴子さんの突然のアイディアに!」といってグラスを挙げた。

暫くは、とりとめのない雑談が続いた。やがて彼女がいった。
「立ち入ったことをお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ、何なりと」彼が答えた。
「私、初めてお会いした鎌倉の薪能で、山部様のお目の中に不思議な彩りを見たと思いました。そのことがずうっと気懸りでした。何でしょうか、悲しみを湛えたとても深い眼差のようでしたが」
「そうでしたか。自分ではそんな目をしていたとは知りませんでした。それから、提案ですが、その山部様は止しましょう。私は山部信行です。お好きなところをとって気安い呼び掛けをしていただくとうれしのですが」
「承知いたしました。それではあなたも、もっと砕けたお言葉でお話くださいますか?」
「いいでしょう。仲良しの友だちといった口調で話しましょう」そういって二人は屈託なく笑った。
「さて、私の目の彩りということだったね」急に語調が変わって、二人はまた笑った。
「今もいったように自分じゃ分からないが、ただ、松風の舞に呼応する私の内なる悲しみについてなら説明できそうだ。それをお話しよう」語調になお戸惑いながら彼が続けた。
「あれはね、若気の至りの慙悸なんだ。
十五年前、夢路描くという風情の女性がいた。私は後先も考えず彼女に恋をした。何度か逢って分かったことだが、その人はやくざの情婦だった。何とか男と別れたいと考えていることを知った私は、彼女の出奔を手引きして友人の別荘にかくまった。
やがてそれが男に知れて大立ち回りを演じることになった。何とか男を打ちのめしたが、その時私はこの頬の傷を負った。手強い相手だった。
決闘の後、私たちは和解し酒を酌み交わした。女はあんたのものだ。どうか可愛がってやってくれと男がいった。乱暴者だったが、あの男なりの愛し方で彼女を愛していたのだと思う。そして、本人は知らないことだが、あの女の余命はいくばくもないといった。彼女は癌に冒されていたのだ。

彼女は、男から解放されて緊張の糸が切れたのか、それから間もなく激しく衰弱していった。入院させていろいろ手を尽くしたが、出奔から僅か一年で逝ってしまった。

いまわの時、彼女は私の手をとって、『やっと穏やかな心に返れたと思ったら行き止まりだったわ。皮肉なものね。とうの昔に死ぬことに覚悟はできていたの。だから悲しまないでね。でも、残念なのは、ついに一度も女としてあなたに扱ってもらえなかったこと。それだけが悲しい・・・』といって命を終えた。閉じた瞼の目じりから一筋泪が流れていた。

薄幸の人生しか生きられなかった一人の女の悲しみを思うと、今でも胸が塞ぐ。

あの松風の能は、行平への届かぬ愛を嘆く物語だ。その悲しみが重なって見えていたということだろう。まあ、私の極めて個人的な感傷ということだ」一息に語り終え、信行は目を伏せてグラスのビールを飲み干した。
「ごめんなさい。そのことは、あなたの胸に大切に秘めておきたいことだったのでしょうに。私の好奇心などで聞いてはいけないお話だったわ。本当にごめんなさいね」
「なに、いいんだ。確かに今までは誰にも話したことがなかったけれど、話し終えたら、あなたが急に身近な人に思えてきた。さあ、今度はあなたの番だ。あなたの目の中にも同質の彩りがあったのを私は見たよ。だからこそ私たちは、互いに興味以上のものを感じたのだと思う。そうでしょう」
冴子は、彼の言葉を聞き終わるとこくりと頷いた。そして、彼女は家庭教師の青年との恋とミラノでの顛末、さらに帰国した日本での苦難を語った。
「・・・船が灯台の明りを見つめて進むように、どんなに辛い時も私はミラノの数年間だけを見据えて生きてきました。あの松風の舞は、十五年も昔の私の人生のクライマックスと、それ以降の私の内面を見るようでした。ああ、もう遠い遠い昔ですわ」
そういって冴子はビールを飲み干した。やがて顔を上げると、
「これは私だけの心にしまっておいた大切な想い出です。これでおあいこですわね」といった。彼女の頬はビールの酔いで微かに赤味を帯び、目には優しい潤いがあった。

二人は暫し互いの目を見つめ合い、その優しい彩りに心を開いていった。
「あなたはミラノの歳月があなたの人生のクライマックスといったが、これからだってクライマックスはやってくる。あなたには、再びそれが訪れるに足る十分な資質が具わっている。ミラノは確かにあなたの宝だろう。しかし、それは過去だ。これからのあなたがどれだけ輝けるか挑戦してみてはどうだろう。輝くとは感動して生きることだ。自分の枠を超えるほどの感動をどれだけ体験し、どれだけ心に蓄えるかということだろう。

私はあなたが好きだ。鎌倉のあの夜以来、あなたは私の心の中に大きな位置を占めた。そして、逢う度にそれが確かなものになっていく。あなたがかつてなかったほど輝くために、私は力を尽くしてみたい。私のこの想いを受け止めてもらえるだろうか」

本来彼は寡黙だった。その彼が、憑かれたように赤裸々な心情をいい切った。
「私ばかりが話し過ぎたようだ。それにしても少し冷え込んできたようだね。ビールをやめて燗酒を貰おうか。それとも温泉で温まるか。差し支えなければ、あなたはこの部屋の風呂に入るといい」と彼がいった。

彼女は一瞬逡巡した。そして、酔いが大胆にさせるのか、ほんのりと赤らむ頬を両手で挟むようにしていった。
「それでは遠慮なくそうさせて頂こうかしら。お部屋へ戻ってお化粧道具などをこちらへ持って参りますわ。ですからあなた、お先にお入りになってください」そういって彼女は部屋を出ていった。
信行は冷えた体を湯に横たえた。豊かな湯が湯船の縁を超えて溢れ、温かく洗い場を潤していった。
溢れる湯のように、奔流となって堰を切った二人の心の繋絡が彼の思惑に先行していた。そしてそれは、人為ではない力に培われて急速に成熟してゆくと彼は思った。とにかく成り行きに預けてみよう・・・彼はそう腹を括った。
湯気抜きの欄間から入ってきたのか、咲き残った桜の花びらが湯の面を漂っていた。

広縁から内風呂に続く引き戸を開ける音がした。冴子が戻ってきたらしい。彼は湯殿の引き戸を開け、
「冴子さん、とてもいい湯だ。あなたが嫌でなければお入りなさい」といった。返答はなかった。しかし、暫くすると、細かな桟がはまった引き戸のすりガラスに冴子のひざまづく影が映った。彼女は、
「本当によろしいのでしょうか」といった。
「どうぞ、どうぞ。私は全く構わない」
「それでは暫くお待ちください」そういって彼女の影が消えた。やがて、失礼いたしますといって引き戸が開けられた。

タオルで前を覆った彼女が中腰で湯殿へ入り、洗い場に屈んでかかり湯を遣った。その肢体の美しさに彼は目を見張った。まるでイタリアの美術館で見た大理石の湯浴みする女の彫像のようだと彼は思った。
「美しい!」と彼がいった。
「いやですわ。向こうを向いてください」恥じらいで彼女の肌に朱がさした。
「それは無理というものだ。美しいものに目がゆくのは自然なことでしょう。あなたは自分の美しさを誇るべきですよ」
「意地悪をおっしゃらないで。四十を超えた女が誇るほどに美しいはずがないではありませんか」そういうと、彼女は信行の視線を窓の外へ向けさせ、体をタオルで包むようにして湯船に入ってきた。

暫く沈黙があった。そして彼がいった。
「人それぞれの美しさというものがあるように、年齢にはその年齢にしかない美しさというものがある。四十歳が二十の美しさに比べても答えは出ない。美しさの質が違い、どちらがさらに美しいということがないからだ。あなたは、四十歳ならではの最高の美しさを具えている。そしてそれは、私にとって何ものにも優る美しさなのだ」

彼は、そういって湯面に漂う花びらを彼女の方へ流してやった。花びらは戯れるように彼女の胸にまとわり漂っていた。

信行が広縁の籐椅子に掛けてビールを飲んでいると、冴子が浴衣姿で湯殿から戻ってきた。
「とてもいい湯でしたわ。何だか心の底まで温まった気がいたします。ありがとうございました」 彼女はそういって向かいの椅子に腰掛けた。そして、彼が差し出すグラスを受け取ると美味しそうにビール飲み干した。渇いた喉に沁みるようだと彼女は思った。

突然信行がいった。
「あなたを抱いてもいいですか?今夜はこの部屋に泊まっていってください」
「はい。あなたのよろしいように」淀みなく冴子がいった。

彼は椅子を立ち、冴子の傍らへ行った。腰を屈め、彼はそっと唇を寄せた。花びらのように芳しい唇だった。
「いらっしゃい」彼は手を引いて彼女を椅子から立たせ、客間に続く寝室へ入って行った。

薪能の女:挿絵3

修善寺能の番組は、三番目物の「雪」、狂言「千鳥」、最後が四番目物の「葵上」だった。

見所は着飾った女たちで賑わっていた。その雰囲気が、どうも能の厳粛さに馴染まないと彼は思った。或る意味で、能は贅沢の極みだった。しかし、贅沢が華やいで見える時、それはただの俗でしかなかった。二人は、女たちの喧騒を避けて脇正面からやや橋懸りに正対する辺りに席をとった。
ものの輪郭が不分明な薄暮の時刻、見所の欄干を越えて、池となだらかな築山、手入れの行き届いた庭木などが醸す景色が非現実的に見えた。それは、そのまま能の世界へいざなう道筋であり、その向こうの舞台へと厳しく連関しているようだった。

火入れが行われ、篝火が夜空に火の粉をまき散らした。冴子は、夜空を焦がす火は何故か性の耽溺とその中を漂う死へ向かう滅びの情感に似ていると思った。彼女は信行の横顔を盗み見た。どんな想念で見つめるのか、彼もまた夜空に消えてゆく火の粉を見上げていた。

舞台では、小品の女能「雪」が演じられていた。シテの雪の精が自らの心を見失い悩み惑う様が二人の心情に重なって見えた。互いの心の在り所を尋ね、或いは、それをしっかりと押さえ込むかのように二人の手は寄せ合った膝の上で固く結ばれていた。

鏡板の背後の丘を吹き降ろす一陣の風が揚幕をはためかせ、篝火を煽った。火の粉が漆黒の夜空を焦がすばかりに舞い上がって見所にどよめきが上がった。しかし、二人は無人の野にあるが如く火影の揺らめく互いの目を見詰め合っていた。

[完]


■一九九二年秋制作
*2002・11・15/推敲、並びに改作。

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