■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[残像・アメリカ]

三ヵ月間もいるもんか!そんな啖呵を切って入国したアメリカに、僕は、何と一年半も滞在してしまった。前章でも述べたとおり年金給付を待つという事由があったとはいえ、僕はアメリカ社会と文化に並々ならぬ関心と共感をもってその一年半を過ごしていた。

はっきりいってしまえば、僕の感性は、日本よりもアメリカ社会によく馴染んだ。制度的に戸惑うことは多少あったが、自分をのびのびと解放して暮らせる文化風土には暮らしの煩いというものがなかった。

アメリカには、毎年、抽選でグリーンカード(無期限のアメリカ滞在ヴィザ)が当たるという面白い制度がある。周囲には、結構、抽選でこの無期限ヴィザを当て、アメリカに住み着いた人が多かった。一九九六年には僕も応募してみたが、もともと籤運のない僕に当たる道理がない。若し当たっていたなら、僕は今頃アメリカに住み着いていたかも知れない。

**

アメリカは移民の国だから、世界各国からいろんな人種が集まって来る。そして、それらの人々が必ずしも十分な教養を身につけているとは限らない。アメリカとしては、彼らの教養を高め、底辺を引き上げることが民力を高めるための至上命令となる。

そういう理由から、アメリカではコミュニティー・スクールの活動がとても活発だ。僕も、一期三ヵ月間の英語クラスを二期通学させてもらった。授業料はタダ。他のクラスも(日本のカルチャーセンターのようにいろんなクラスがある。声楽コース、油絵コース、クッキングコース、コンピュータコースetc.)限りなくタダに近い。

無料にも拘らず、教育成果が厳しくチェックされるので、先生は物凄く熱心だ。クラスの生徒数が著しく減少したり、授業の成果が十分に上がらないと先生は馘首されてしまう。だから、生徒が少しさぼったりすると、先生から電話が掛ってきて病気でもしていないかと尋ねてくれるし、自信をなくしていたりすると親身になって励ましてくれる。

時には、自宅でポットラック・パーティー(各自一品ずつ料理を持ち寄るパーティー)を開いて生徒間の和を図ったり、生徒それぞれのお国文化のデモンストレーション(僕は書道の実演をした)を企画したり・・・先生はクラスの維持に、本当に一生懸命だった。

そんな中で、僕はアメリカ人に限らずいろんな国々の素晴らしい友人を得た。振り返って見ると、僕はアメリカという国に本当にお世話になったと思う。


[英雄伝説]

僕が通うコミュニティー・スクールの英語クラスに、フランス人のアルベールと日本人のミチコというカップルがいた。僕はクラスの中で彼等ととても親しかった。

彼等が授業に現れなくなって二週間ほど経た頃、カレン先生は、僕に彼らの動静を尋ねた。何度コールしてもミチコの携帯に電話が繋がらないらしい。僕自身、彼らのことが気になっていたので、その日から僕はアルベールとミチコ探しを始めた。

さらに一ヶ月ほど過ぎた真夏の夜、僕はガスランプ・クォーターで酔っ払っているアルベールに出会った。あんなにだらしなく正体を失っている彼を見たことがなかったから、僕は少なからず驚いた。

「アルベール、久し振りじゃないか。どうしたんだ、そんなに酔っ払って?」

彼はフランス語で何か喚きちらしたが、僕には何をいっているのか分らなかった。 「オレだ、zenだよ。そこのカフェで座ろう」そういって僕は立っていることもままならぬ彼を手近な椅子に掛けさせた。でも、彼は、やっと僕が分るというほどに酩酊していて、筋立った話が出来る状態ではなかった。

僕は彼をアパートまで送って行った。彼の居場所が分ったから、明日また訪ねて来るつもりで彼を寝かせつけ、その夜、僕はマリーナへ帰って来た。

それにしても彼の酔っ払い方は異常だった。心の中に解き難い葛藤があって、それが彼を正体なく泥酔させているように僕には思えた。それに、彼のアパートにはミチコが住んでいる痕跡が全然見当たらなかった。

**

翌日のお昼過ぎ、僕はアルベールを訪ねた。彼はひどい二日酔いで頭を抱えていた。僕が手土産に持って行ったグレープフルーツを彼は貪るように食べた。

「zen、夕べはすまなかった。あんなに酔っ払って恥かしいよ」そういって彼は俯いた。

「キミがあんなに泥酔したことに僕はとても驚いている。でも、何か訳があってのことじゃないかと思ったけど、違うかな?」

アルベールはびっくりしたように僕を見て、キミは人の心が読めるのか?といった。

窓の外ではケヤキの大木がそよ風にさらさらと葉擦れの音を鳴らし、駐車場に降りこぼれる斑な木漏れ日が、珊瑚礁に戯れる漣のように揺れながら涼やかな影を降らせていた。彼は、その辺りへ虚ろな視線を投げかけたまま話し出した。

「七月のはじめ頃、ミチコとボクは幾人かの仲間とユタのレーク・パウエルへ出掛けたんだ。サン・ディェゴから東へ、アリゾナの砂漠を横切ってどこまでも続く素敵なドライブだった。フェニックスで北へ曲がりコロラド川の上流へと走って、途中、グランド・キャニオンに立ち寄った。

ボクらは、そこにキャンプを張った。永遠という言葉を連想させる荒々しい原始の風景にボクらは酔い痴れた。素晴らしい月夜で、まるで深い水の底にいるようだった。月に咆えるコヨーテの声が永く尾を引いてキャニオンに木霊していた。ボクとミチコは、何かから互いを守るように、お互いをしっかりと抱きしめて眠った。

翌朝、ボクらはまた陽気なドライブを始めた。昼過ぎ、レーク・パウエルが見えてきた。レーク・パウエルは、コロラド川上流をダムでせき止めた人造湖だ。そして、驚くほど広大なレークには、至る所に奇妙な形の山が聳えていた。

ボクらは、三日間、ハウス・ボートをレンタルして湖水巡りを始めた。

最初の夜は、切り立った岩山の片側を鉈で削ぎ落としたような断層面が落ち込むビーチにボートを停めた。幾筋もの地層が折り重なるその垂直な面には、不思議な図形があった。勿論、それは自然が形作る模様なんだけど、見れば見るほど緻密に抽象化された鷲やバイソン(野牛)などに見えた。その説明がつかぬ不思議な図形を、ボクらは、神が描いた芸術といい合ったものだ。

その周囲には、球を真っ二つに切って伏せたような丘がいくつもあった。切り立った岩山と半球形の丘・・・それらは西部劇映画で見る景色といえば分ってもらえるだろうか。

その夜、ボクらはキャンプ・ファイヤーを囲み、バーベキューと酒で大いに盛り上がった。しかし、それはグランド・キャニオンの夜と比べ、あまりにも異質な夜だった。前夜はこの地球上にボクら以外誰もいないという感じだったのに、レーク・パウエルでは、夥しい霊魂に取り囲まれているという気配があった。みんながそれを感じていたと思う。そういう畏怖が、逆にボクらをあんなに大騒ぎさせたのかも知れない。

翌朝、出発までの時間に、ミチコとボクは球形を半分に切って伏せたような山へ登ってみようということになった。みんなは、山肌は砂岩だから滑って登れないといったけど、とにかく登れる所まで登るつもりだった。

危険な所もあったけど、ボクらは何とか頂上を極めた。目の下には広大な湖の景色とボクらのハウス・ボート、そしてその周りには仲間たちが小さな点のように見えていた。彼らからボクらが見えないのか、いくら大声で叫んでも誰もボクらを見上げようとはしなかった。

丘のさらに向うに同じような丘が続いていた。そして、その落ち込んだ沢の一つには、誰かが仮泊でもしたような崩れた小屋掛けがあった。

ボクはミチコの手を引いて頂上へ戻った。そして、ボク自身が驚いたことに、全く唐突にボクはミチコとこの山頂で交わりたいと感じた。

セルリアン・ブルーの生絵の具をムラなく塗り込めたような深い青空には一片の雲もなく、すぐ近くの頭上には溶かした金属を思わせる巨大な太陽があった。それは、ボクの心拍に呼応するようにその中心に向かって灼熱の収斂を繰り返し、脈動しながら黄金の光を降らせていた。完璧な球形の頂点に寝そべると、ボクらには空しか見えなかった。そして、ボクらは地上から解脱した者、さらにいえば天上に属する者という未だかつて想像したこともない感覚の中を浮遊していた。

ボクらが互いを一体感で捉えていたその時、ミチコは、誰かに問うように『エッ?』と叫んだ。ボクは彼女の反応にちょっと驚いた。

暫くして、

『あの時、キミは誰と話をしていたの?』と尋ねた。ミチコは、何かに心を奪われたような口調で、

『インディアン。若くて、逞しくて、悲しい目をしたインディアン・・・』といった。さらに彼女は独り言をいうように、

『私について来るように・・・そういったわ』といった。

ボクらは足元を確かめながら、滑りやすい球形の山を下った。登りよりも下りの方が遥かに危険だったのに、ミチコはボクに手を引かれるまま夢見心地で歩いていた。

その日の午後も、翌日も、ミチコは夢見心地から醒めなかった。いや、二日間だけじゃない。サン・ディェゴへ帰って来てからもそうだった。

サン・ディェゴで、彼女は図書館通いを始めた。借り出してくる本はどれもネイティヴ・アメリカンに関するものばかりだった。ボクは、彼女が栞を挟んだページを読んでみた。

それは、ナバホ族の歴史や伝説に関するものだった。そして、コロラド川流域はかつて彼らのパラダイスであり、その上流、つまり、人造湖のレーク・パウエル辺りは、彼らの聖地だったことが分ってきた。

さらに、大昔、部族間の抗争の折、千人ものナバホ族を戦の殺戮から救い、自らを犠牲にした勇者ラマハフテワの伝説が載っていた。

彼は大酋長の一人息子だった。ラマハフテワが妻を迎える前日、北の部族と不幸な抗争が始まった。彼は先頭に立って戦った。彼の奮闘で敵は苦戦を強いられた。しかし、軍勢では明らかに敵に利があり、戦の成行きは時間の問題と見えた。

ラマハフテワは一計を案じ、一人で敵陣へ出掛けた。そして、敵の大酋長に勇者との一騎打ちを申し出た。大酋長は、彼が十人の勇者を退けたなら、軍勢を引き上げようと約束してくれた。

ラマハフテワは次々に敵の勇者を倒していった。そして、十人目の勇者は敵の大酋長の息子だった。一騎打ちは一進一退のまま続いた。敵に疲れが見え出した時、ラマハフテワに部族の長老が耳打ちした。『彼を殺してはいけない。若し彼を殺したらお前は殺され、そして、お前の部族は殲滅されるだろう』

ラマハフテワは自らの胸に刃を受け、ついに妻を娶ることもなく死んだ。

敵の大酋長は、ラマハフテワの遺骸を鄭重に送り返し、『ラマハフテワこそは誇り高き真の勇者。彼は、たった一人で我々を撤退させる』と賞賛の言葉を贈った・・・。そういう伝説だった。

ミチコは何度もアリゾナのフェニクスへ通ったようだ。そこにナバホ族の博物館と資料館があったからだ。

そして或る日、彼女が消えた。彼女の置手紙には、『あの日、山頂の交わりで、私はラマハフテワの子を身篭りました。私は、彼の部族を訪ね、彼等と共に暮らします』とあった。

随分いろんな所を探し回ったよ。そして、アリゾナのネイティヴ・アメリカン保護区でミチコを見つけたんだ。でも、彼女はもう日本人のミチコではなかった。ボクの許へ帰って来て欲しいと頼んだけど、無表情に首を横に振るばかりだった。そして、居留地の人々は、ミチコが本当にラマハフテワの再来を産み落とすと信じているようだった。

彼女はインディアンになってしまった。それが彼女にとって幸せなのかどうかボクには分らない。ただ、そのきっかけを与えたのはボクなんだ。そういうと、彼女は、『いいえ、それは違うわ。私は大いなる意思に導かれて本来の自分に巡り会えたの。私はいま、ラマハフテワの愛に支えられてとても幸せよ』といっていた。

彼女は、一体どんな霊感を受けたのだろう。そして、彼女に何が起こったというのだろう。ボクには何一つ分らない。ミチコという人格は、この地上から完全に消えてしまった。ただ、魂の抜け殻のようなボクが取り残されているばかりだ・・・」

語り終えると、アルベールは俯いたままとても永い間沈黙していた。暫くすると彼は一枚の写真を見せてくれた。アリゾナで撮ったものだった。写真には、見知らぬネイティヴ・アメリカンの女性が写っていた。

アルベールは、あれからも毎晩酔いつぶれていたようだ。そして、冬の気配が兆す頃、彼はサン・ディェゴから消えた。彼の友人に尋ねるとフランスへ帰ったのだろうといい、別の友人はアリゾナへ行ったのかも知れないといっていた。そうだとすると、彼もまた何かの霊感を受けたのだろうか?

確かなことを知る者は誰もいなかった。


[さらば、サン・ディェゴ!]

一年半といえば短い期間のようだけど、サン・ディェゴを基点に、僕は驚くほどいろんなことを経験し、たくさんの友人を得た。そして、それらの素晴らしい想い出を満載して、[禅]は、一九九七年三月九日、アメリカを後にした。

その日は日曜日ということもあって、朝から見送りの人が大勢来てくれた。僕の友人、スミコの友人、さらに二人の共通の友人やマリーナの仲間たち・・・。それはもう、こんなに陽気な船出は見たこともないというほど賑やかな見送りだった。

マスト・サイドには星条旗と行き先国であるフレンチ・ポリネシアのフランス国旗、出帆を告げるブルーピーター(P旗)、さらに船尾には日の丸が誇らしげにはためいていた。デッキやポンツーン(浮き桟橋)はひきも切らぬ見送りの人々で溢れ、快活な対話や笑い声に充ちている。スミコは、あちこちの声に応え、赤いバラの花束を抱えてカメラにポーズを作っていた。何という明るさだろう。

こんなにも違うものなのだろうか。今までの一人の出航には、常に或る種の眦を決した覚悟みたいなものがあった。それは、陽気に高揚する気分とは対極の、ちょっと悲壮感を帯びた感情だった。しかし今、[禅]のデッキには南太平洋へ拡がる夢がある。

十一時を過ぎた頃から濃い霧がたちこめ、西風が卓越してきた。出航にはあまり好い天気ではなくなったけれど、これだけの人々の陽気な激励に取り囲まれていては延期する訳にもいかない。それに、今回はスミコが同乗することもあって、僕自身の気分も軽やかに高揚していた。

クルージングを冒険と捉えるかプレジャーと捉えるかの違いだけれど、人生を豊かにするというスタンスで考えるなら、この高揚した気分は、僕の航海の進化といえた。

僕は、あり余る時間に任せのんびりと世界の海を巡り、たくさんの心豊かな人々と出会い、大自然との邂逅に目くるめく感動を求めてきた。しかし、一人では充足して感動することが出来なかった。そうした経験から、『感動は共鳴しなくては完結しない』と常にいってきた。しかし、これからは、その時々の感興を共有する人がいる。かねてから追い求めてきた思いが、今やっと形を結ぼうとしていた。

**

正午、[禅]は舫いを解いた。大勢の人々から、ジョークまじりの激励が飛び交う。バウデッキ(船首甲板)で、スミコが笑い転げながらそれらに応えていた。

[禅]は、マリーナを離れ水路へ出た。見送りの人々は、たちまち霧の中に見えなくなってしまった。

右斜め前から二十五ノットの風。霧は深く何も見えず、おまけに波もよくはない。午後一時半、[禅]はポイント・ロマ沖とおぼしき辺りを六ノットで快走していた。二人ともシーシック(船酔い)気味で、次第に無口になっていった。それでも、視線が合えば笑みが交わされ、僕らの気分の高揚に変化はなかった。

午後三時には風が十五ノットに落ち、霧が晴れて快晴になった。しかし、左舷には、もうアメリカ大陸の影はなかった。

出航以来、スミコがヘルム(操舵)をとっていた。恐らく、何かしていることでシーシックを紛らわせているのだろう。しかし、フンボルト寒流のど真ん中だから、夕方になるととても寒くなる。自動操舵に変えてスミコを舵から解放すると、彼女は、まるで糸が切れたようにバース(寝床)に潜り込んでしまった。

夕方から風は衰え、ほとんどカーム(凪)になった。陽射しが絶えると物凄く寒い。それに、まるで雨が降ったように何もかもがじっとりと夜露に濡れた。あるかなしかの風に業を煮やし、僕はついにレーダーにウォッチを任せ、眠ってしまった。レーダーは、肉眼では発見しにくい南太平洋の環礁(ほとんど灯台はない)などに備えてスミコが[禅]に寄付してくれたものだ。

夜中にアラームが鳴ってデッキに飛び出してみると、二浬前方を大型のコンテナ船がまばゆい光を撒き散らしながら闇の中を横切って行った。レーダーって凄い!そんな当たり前のことに、僕はあらためて感服していた。

しかし、レーダーに見張りを任せれば眠れるとはいえ、電気の消費量は相当のものだ。特別な時以外、安易にレーダーは使えない。そんな訳で、従来からの一時間半ごとのウォッチ(見張り)体制は変わらなかった。

日の出時、デッキへ出てみると、左舷はるかにエンセナダ(メキシコ北部のバハ・カリフォルニア)の山並が、雲と見まがうばかりの微かなシルエットで見え、日の出と共に消えていった。これでもう、当分は陸影ともお別れだ。

十日正午、デイラン(一日の走航距離)はたった七十二浬。夕方からのカームで、帆走距離は思うようには伸びなかった。

しかし、日中は好い風をもらい[禅]は快調に走っていた。きらきらと輝く濃紺の海に、時折砕ける波の白さが美しかった。寒流のせいで気温は低いものの、陽射しは刺すように強烈だ。追っ手で走っていると船上では風を感じないから、コックピットは快適な陽溜りだった。

僕はコーヒーを淹れ、大量に買い込んだビーフジャーキーの一袋を持ってコックピットへ出た。果てしない海原を眺めながら干し肉を食べていると、スミコがバースを抜け出し、シーシックで蒼ざめた顔で現われた。彼女は、レモンのキャンディーと白湯のカップをご持参だ。暫くすると、スミコが僕のビーフジャーキーに手を出し始めた。そして、二人でたちまち大きなジャーキーの袋を空にしてしまった。競うように消化の悪い干し肉を詰め込んで、僕はまたひどく気分が悪くなってしまった。スミコは、食べ終わるとまたバースへ潜り込んでしまったけれど、その様子から察するに、彼女の方が僕よりも海への適応が速やかかも知れないと思った。

キャビンは出航時のまま乱雑を極めていた。散らかり放題になっているが、二人とも、それを整頓しようというほどにはまだ体調が回復していない。まあ、時間はたっぷりある。海の生活に慣れるまで、暫く放っておこう。

十一日の夜は、二十五から三十ノットの風が吹いた。船酔いが続いていたから、この程度の時化でも少々辛い夜になった。

それに、前方三十二浬のイスラ・デ・グァダルーペというメキシコ領の絶海の孤島を真夜中に交わさなくてはならない。灯台がないから、現在位置と針路の正確さだけが頼りだ。

スミコが時々起きてきて、ウォッチを替わろうかといってくれるが、何も見えないのでは見張りのしようもない。それでも、いざとなればウォッチを替わってくれるクルーがいるということは、何と心強くありがたいことだろう。僕は、GPSとチャート(海図)を交互に睨みながら、三十分ほどの短いまどろみを数回に分けて貪った。

朝六時、時化が収まった海を[禅]は滑らかに走っていた。ふと見ると、右舷遥か後方に、闇夜の中を航過してきたグァダルーペ島が霞んで見えていた。

[禅]は北緯三十度を走り抜けて二十度海域に入った。赤道まで一八二六浬(約3340km)。もう、洋上に[禅]を遮るものは何もない。


[赤道へ!]

三月十三日。出航以来四日目になると、二人とも体調は随分よくなった。

スミコは、昨夜、夕食にゴボウと油揚げの炊き込みご飯を作ってくれた。そして今日の朝食は、卵とハムのクロワッサン・サンド。さらに夕食には、ガーリックバターの野菜炒めを作った。陸ではほとんど料理をしなかった彼女なのに、航海に出てからは人が変わったように頑張っている。

それにしても、航海途上、こんな献立にお目にかかれるとはうれしいことだ。調理のいい匂いが心までほのぼのとさせてくれる。それにしても、今まで僕はどんな食事をしてきたのだろう。彼女が作るバラェティー豊かな料理を前にして、僕は、かつての航海での食事を思い出せなかった。

お昼は、僕が焼いたホットケーキにフォーションのアールグレーの紅茶。それらを随分温かくなったコックピットに運んで、穏やかな海を眺めながら食事をした。

突然、海面を裂くように、イルカの大群が現われた。スミコは、野生のイルカを見るのが初めてらしく興奮している。イルカがジャンプし、その度にスミコがシャッターを押す。僕は、そのタイミングを見て笑い出してしまった。 「スミコ、写真には海面しか写っていないよ」僕がそういうと、 「だって、そこにイルカがいるじゃない」とスミコがいう。 「確かに、イルカはそこにいるよ。でも、スミコがシャッターを押す瞬間は、奴らはもう水の中だよ」

案の定、後日、へんに波立った海面の写真が大量に出来上がってきた。しかし、イルカの姿はどこにも写っていなかった。

また、日没時には、彼女が見たこともない壮麗な夕焼けが、毎日の恒例イヴェントとして目の前に繰りひろげられた。それらは一日として同じ夕焼けはなく、日ごと彼女の新たな興奮を誘い、カメラの出番となる。位置も月日も定かでない様々な夕焼けのプリントが、今も僕の手元にどっさりある。

イルカが去り、夕焼けが終り、そして、海が荒れてきた。突如、ウインドジェネレーター(風力発電機)が物凄い軋み音を響かせた。通常でさえ、強風時には小型飛行機が離陸するような唸りを上げて僕らの精神をかき乱す奴だ。それに金属が軋む音が加わったのだから堪らない。ジェネレーターだけじゃなく、船までがバラバラになりそうな音だった。若し回転しているブレード(刃・羽根)に触れれば、指一本くらいは容易に吹っ飛んでしまうほど危険な代物だ。僕は、狂ったように回転するジェネレーターに注意深くにじり寄り、その尻尾を掴んで反転させた。風を受ける角度を正面からずらすと、それはひとりでに止まった。

ブレードが回転しないように雑索(ロープの切れ端)で縛り、僕はスターン・パルピット(船尾のステンレス製手摺)を足場にジェネレーターの支柱に攀じ登った。しかし、もう日が沈んで手元は暗く、それに時化気味の海に[禅]のローリングが激しかった。ライフハーネスを船体に繋いでいるとはいえ、墜落すればタダでは済まない。

僕が一人なら、多分、支柱に噛り付き、懐中電灯を口にくわえて手元を照らしながらでも修理したかも知れない。そして、それは命をかけるほど火急なことでもないのに、正に命懸けの作業だった。 「明日、明るくなって時化が収まってからにしたら?」やんわりとスミコがいった。何故とはなしに不服だったけど、僕は作業を中断することにした。

翌日は、再び穏やかな海況に恵まれた。滑らかに[禅]を走らせての作業は、昨夕感じた危険など微塵もなかった。

考えてみれば、スミコが僕の心に平静と余裕を与えてくれていた。これは、クルーとしての労力なんかよりも遥かに大きな、新たな[禅]の資質だった。

**

北太平洋の高緯度では、三日に一度は三十五ノット以上の時化だった。しかし、このレグでは、日に一〇〇浬をコンスタントに走るには風が弱過ぎた。

風のパターンは、日中は十から十五ノットの順風、夕方に五ノット前後の凪になって夜中に二十ノット以上に吹き募る場合と、夕凪のまま夜も微風という二通りだった。そして、朝はおおむね十ノット以下の微風だ。

だから、九日から十七日までの八日間で走った距離は、たった七一六浬。一日平均八十九・五浬というていたらくだった。

三月十七日には北緯十九度海域に入った。貿易風はいつになったら吹き出すのだろう。そんなことをぼやいてみたり、「のんびり行けばいいじゃないの」と宥められたりして十七日が暮れた。

翌三月十八日、快晴の空に綿を千切ったような雲が流れ、腰のある二十ノットの北東風が定着した。俄かに、生き返ったように海はキラキラと輝き、水の色までが透明な紺色に変わった。全てのボルテージが跳ね上がり、目路の果てまで広がる海が、まるでビートのきいたラテン音楽のように躍動している。遂に貿易風が吹き出したのだ。

水色に光る風も、あちこちに群れて小躍りし白く笑いさざめく波も、タンバリンを打ち鳴らす太陽も、青い蝋引きの空も、綿を千切ってピンでとめたような真っ白い貿易風雲も、時折やって来る暴走族まがいの気狂いスコールも、セールが唄いキールでビートを刻む[禅]も、マストに止まろうと日夜ぶっ通しで二日前からトライし続けるアホウドリも、瑠璃色に飛翔し、または誤ってデッキに着地するドジなトビウオも、手拍子して歓びのステップを踏む僕らも・・・みんな弾けるリズムに酔っていた。そしてさらに、それら一切をその豊かな胸に包み込む海の、何と大らかに、何と至福に充ちていたことだろう。

気温がグンと上がり、もう紛れもない熱帯の海。着たり脱いだりしていたスェーターやジャケットはキャビンの隅に放り込まれ、Tシャツ、短パンでデッキを駆け回る。打ち込む波しぶきに濡れながら僕らは笑っていた。

***

ローリングは厳しいが、[禅]は三日間もヘルムの微調整することもなく走りに走った。日中にずれたコースは、放っておくと夜には風が変わって元のラムライン(目的位置へ直線に引いたコース)へ戻してくれた。デイランは、いっきに一三五浬になった。

十九日。北緯十六度五〇分、西経一二〇度。昨日にも益して素晴らしい日だ。十五から二十二ノットの北寄りの風で、[禅]は快調に走っていた。

前方に鳥山が見えるとスミコがいった。早速トローリングの仕掛けを流すと、程なくケンケン(日本流トローリングのウキ・形状からヒコーキともいう)がグイと沈んだ。

凄い引きにスミコがギブアップ。僕が代わってラインを手繰り込み、銀色にプルシャンブルーの模様が美しい真鰹を引き上げた。デッキを激しく打つ太く逞しい胴。その姿と動作は瑞々しい生命の塊だ。

食料と見做してこれを殺すのか?

釣果への興奮がゆるゆると退行し、僕らは互いの目を見つめ合った。唐突に立ち現れた予期せぬ躊躇い・・・。 「ごめんね」といながら、僕はウインチハンドルで鰹の頭を殴る。痙攣が走り、やがて鰹は動かなくなった。鰹は、振り下ろされるハンドルと僕を、あのまん丸な目で見ていただろうか。ひんやりとした寄る辺ない感情がいつまでも心の芯に残る嫌な作業だった。

フィレ・ナイフを持ち出し、コックピットを血だらけにして鰹を捌きにかかった。内臓や頭などを海中に放ると、何日も前から[禅]について来ていたシイラの群が、隠れ場所の船底を離れてそれらを漁った。いくつかのフィレを皿にとってコックピットを海水で洗い、『無駄なく食べさせて頂きます』と僕は、既に食物に姿を変えた鰹に呟いた。

その後も鳥山は続き、鰹に追われたトビウオがそこら中を飛び回った。その飛翔は素早く、優雅で、そして美しい。しかし、魚にしてみれば剣呑な食物連鎖の修羅場だ。時折鰹が跳ね、こんなに海鳥がどこにいたのだろうというほど、さらに鳥が群れる。暫くすると、この大騒ぎを見物しにイルカの群がやって来た。いやはや、何と賑やかな海だろう。

二十日から風は衰えはじめ、二十一日にはついに凪になった。正午の位置は北緯十三度五〇分。赤道無風帯にはまだまだ遠いはずだ。しかし、これほど完璧な凪も珍しい。鰯雲が真っ平らな海面にくっきりと映っていた。

漂うに任せていたら、さっき剥きながら捨てたオレンジの皮が、一列に並んで、また[禅]の横を流れて行った。どうやら、同じ場所をグルグル回っているようだ。急ぐことはないとはいえ、これではマルケーサスはおろか、赤道にだって着けはしない。

僕らは、パバロッティーのイタリア民謡を聴きながら、のんびりと機走で走ることにした。しかし、北緯十三度はさすがに熱帯だ。風が絶えるとめちゃくちゃ暑い。バケツで海水を汲み上げ、互いに頭から浴びせ合うが、乾くと前よりもっと暑さを感じてしまう。

****

三月二十四日、ついに北緯九度海域に入った。概ね順調な航程だ。

時々、激しいスコールが来る。天と海とを繋ぐスコールの太い柱があちこちに見えるというのに、雨はめったに[禅]の上には落ちて来ない。たまには真水で体を洗いたいとバケツを用意して待っていても、激しい突風が吹き抜けてゆくばかりだった。

夜中、レーダーに見張りをさせて眠っていると、頻繁にアラームが鳴る。コックピットに出てみると、九分九厘は遠いスコールを感知したものだった。

三月二十六日、北緯五度海域に入った。風向きが安定せず、南寄りの風(北半球の貿易風は北東風が一般的)が多くなった。これは、赤道の南側の貿易風が卓越していることを物語っているのだろう。いよいよ赤道無風帯が近い。それでも風が絶えることなく、コンスタントにデイラン一〇〇浬を維持していた。

二十八日。北緯二度。風が息をし出した。 いよいよ無風帯か。しかし、よくぞここまで風が吹き続いてくれたものだ。

水路誌によると、例年三月、四月あたりの西経一二三度付近は赤道無風帯の幅が年間を通じていちばん狭くなる。そうしたデータに倣って、僕は西経一二三度で赤道越えを計画していた。人によっては、二週間も無風帯に閉じ込められたというケースがあるほどだから、僕の選択は正しかったことになる。

二十九日正午、北緯〇度五十五分。南東の風五ノット。超微風の中を、[禅]はサワサワと水をかき分けて進んで行った。

赤道を越えるに先がけ、僕らは海水で体を洗い、サン・ディェゴで買い入れた造水器で作った真水で塩気を流した。とてもさっぱりしたけれど、マニュアルの造水器で真水を作るのは大変な作業だった。もともとはスミコのエクササイズのはずだったのに、彼女はあまりにも根気と労力を要する仕事に音を上げ、僕の仕事になってしまった。ハンドルを八〇〇回上下させて、得られる水はたった一リットル。とてもじゃないが日常の役には立たない代物だ。二人分の塩気を流す水を作るために、恐らく僕は三〇〇〇回以上もポンピングしたことになる。三十四度の猛暑の中、僕は汗だくになって真水を作った。やれやれ・・・。

三十日、午前一時四十六分。GPSの緯度がすべてゼロになった。正にこの瞬間、僕らは赤道の線上にいた。経度は、当初の予定通り一二三度ジャスト。完璧だ!そして、次の瞬間、緯度の記号がN(北緯)からS(南緯)に変わった。

僕らは、星が降りこぼれる真夜中、コックピットに飛び出してカミユのVSOPを威勢よく赤道の線上に注いだ。スミコは、「真っ暗で赤い線が見えないよォ」といって笑っていた。

北極星は四日前までは北の水平線上の波間に見え隠れしていたが、赤道上では既に見えなかった。そして、北斗七星のひしゃくの部分もまた水平線下に隠れてしまい、オリオンがすっかり横倒しになっていた。




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