■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[タヒチ(TAHITI)]

触れれば溶けてしまいそうな西風が吹いていた。お昼頃マニヒを出航して以来、ずーっと機帆走だ。でも、今のところ、天気は安定している。

午後九時、満月が昇った。大きく滑らかなうねりだけの海面に、錫の箔を散らしたような月光の反映が美しい。

三時間交替のウォッチを組み、ゆっくり眠ろうと試みた。しかし、どうしたことか眠れない。仕方がないから、僕は起き出してしまった。二人で起きていてもしょうがない。交替時間を前倒しにして、スミコに休んでもらった。終いには、手が必要な時だけスミコを起こすということになり、結局は、いつものローテーション。

航程は、パピエテ(Papeete)まで二七三浬。ゆっくり走って三日間でしかない。細切れに数時間眠れば、何とか体は保つだろう。

五月二十三日、〇時。レーダーに大きな輝点が映っていた。急いでデッキに出てみると、正面に[ディプロマティック・リトリート]がヒーブツーしていた。風もなく、海も穏やかなので船を停めて眠っているのかも知れない。そう思って、すぐ脇を静かに通過した。

明け方から、雲行きがおかしくなった。視界には見えないが、右舷数浬にはランギロア環礁があるはずだった。

その辺りを、猛烈なサンダーストームが襲っていた。勿論、[禅]のコースもその中にあった。ほとんど無風かと思うと、突然のストームだ。一体、この海域の気象はどうなっているのだろう。

僕はセールをリーフし、出来るだけ暗色の部分を避けて前面の灰色の壁に突っ込んで行った。ふと見ると、そのすぐ脇を、[ワミンダ]が四十五度ほどもヒールして、フルセールで爆走していた。しかも、五十フィートの[ワミンダ]を操っているのは、奥さんのスーだった。ゲーリーはウォッチオフで、赤ちゃんのタイラーといっしょに眠っているようだ。僕は、只々、彼らのタフネスに舌を巻いた。

午前十一時、ランギロア環礁の南東端を通過した。一時間ばかりのストームが過ぎると、風はまた絶えてしまった。

二十四日〇時。突然、気圧が三ヘクトパスカル下がった。デッキへ出て見ると、空が厚い雲に覆われていた。どうやら局地的な低気圧が発生したようだ。

午前三時。風が出てきた。そして、五時には、南の風が三十五ノットになった。激しい雨の中を、[禅]はクローズド・ホールドでひた走った。僕は、結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。

雨は午前中降り続いた。今朝の時化で、どうやら貿易風が戻ってきたようだ。弱いけど、恒常的な南東風が吹き出した。

お昼が過ぎると空は晴れてきた。海はきらきらと輝き、久し振りに美しい南太平洋が僕に微笑みかけた。

こんなにも素晴らしい素顔をもっているのに、海は、何故あんなに醜く荒れ狂うのだろう。美しい女が、内に秘めた陰惨な本性を露にするような痛ましさ・・・僕はそれを見るのがとても辛い。確かに、狂うのもまた海の素顔なのだけれど、彼女の美しさを知っているだけに、僕は美しい海を激しく慕う。

或いはまた、この不条理こそが海なのだろう。海を女性と見做し、そこに優しさを期待することこそ、人間の甘い幻想なのかも知れない。でも、それが幻想なら、僕はどこに海との繋がりを見出せばいいのだろう。

束の間、優しく微笑む海に心を開き、すっかり幸せな気分になって振り返ると、もうそこには狂気の海が猛っている。僕は、今までずーっとそんな航海を続けてきた。
『zenは気象にはついてないね』と、よくいわれた。そうかも知れない。でも、もう少し、美しい側の素顔を多く見せてもらえないものだろうか。そうでないと、僕は、この大好きな海が嫌いになってしまいそうだ。


**

こんなことってあるのだろうか。空気が格別に澄んでいたのだろう。六十七浬(124km)も離れたタヒチ島がはっきりと見えた。

二十四日午後四時半、水平線上に三角形のトンガリが二つ浮かび上がった。確かに、他の島々と比べてタヒチの山は高い。主峰オロヘナ山は二二三八メートルもあり、すぐ北にはアオライ山二〇六五メートルが並ぶ。それにしても一二四km先から見えるなんて経験は、かつて僕にはなかった。

その後、夜半にサンダーストームが掠めたが、タヒチを遠望したことが励みになって、僕は、ひたすら[禅]を前進させた。

二十五日朝八時、パピエテ港入口まで七浬。洋上ではほとんど風がなかったのに、陸地の影響か、二十ノットオーバーの向かい風が吹き出した。気はせくが、波にがぶられて[禅]は思うように進まない。

十一時、パス・ド・パピエテを通過。右手のリーフに、真っ赤に錆びた廃船が見える。港内をゆるく左へ転舵し、尖塔のあるプロテスタント教会前のビーチへ向かった。港内では、[Love]、[Jazz]、[アクアココ]、[ワミンダ]、[シーレーブン]、それにKENの[ファーザー]など、旧知の艇たちが[禅]を迎えてくれた。

内港の岸壁に、いわゆるタヒチアン・スタイルの係留(船首から沖アンカーを入れ、船尾を岸壁に係留する方法)をしたかったが、日曜日でポートマスターの許可が得られなかった。仕方なく、プロテスタント教会前に、[ワミンダ]のゲーリーの手伝いでスターン・アンカーをビーチの砂浜に固定してもらった。
五月二十五日、何はともあれ、僕らは憧れのタヒチに着いた。


***

タヒチは、南太平洋のパリといわれる。パピエテ港はメインストリートのポマレ通りに面し、フランス文化を背景にした都会の華やかさと、観光地固有の刹那的で楽しげな非日常感に溢れていた。
僕らは早速タヒチの探訪に上陸した。赤い日除けを粋に張り出したル・レトロは、まるでパリの街角の洒落たカフェのようだった。そこで僕らは、南太平洋を航行中、渇望し続けたシャーベットにありついた。
目まぐるしく客席の間を行き来する真っ白なシャツに黒エプロン姿のギャルソンや世界各国から来た観光客たち。その陽気な対話と笑い声。豪華な料理とワインやヒナノビール。すぐ目の前の道路に溢れる車。サン・ディェゴ以来はじめて目にした交通信号機。そして、人、人、人・・・。そんな雑踏の中に腰を降ろし、僕は、訳もなくホッとしたくつろぎを覚えていた。そこには、今まで通ってきた手に負えないほど圧倒的な大自然の只中で味わうことのなかった慣れ親しんだ文明社会の安堵があった。

僕らはやはり、相当文明に毒され、それが保証する秩序と安全に寄り掛かって生きてきたということだろうか。手つかずの原始の自然に憧れる気持ちも、片側に文明という逃げ場を確保しての奢りでしかないのだろうか。勿論、それが全てではないにせよ、僕らにそういう側面がないとはいい切れない。僕は、ル・レトロのざわめきに包まれ、洒落た椅子にくつろぎながら、そんなことを思って苦笑していた。

翌月曜日朝、内港のスペースが空いたことを聞きつけて[禅]を移動した。その後、関係書類を持ってポートマスターのオフィスを訪ね、その旨を申告した。何の問題もなかった。

岸壁には、あたかもクルージングの国際見本市のように、世界各国のエンサイン(国籍旗)をはためかせたヨットが並んでいる。何だか、メインステージに登ったような晴れがましさだ。電気も水も思うままに使え、一歩街へ踏み込めば、欲しいものは何でも手に入る。

仲間のヨッティーたちとの行き来も頻繁だった。[禅]のコックピットは、いつも賑わっていたし、僕らもまた、多くのヨットを訪ねた。何度か、[禅]でディナーパーティーを催し、いろんな仲間が来てくれて、最高に楽しい時を過ごした。パピエテは、尽きることのない歓楽と非日常性に満ち溢れていた。


****

三十日未明、スミコに起こされた。恐ろしい突風が唸り、あちこちから艇が何かにぶつかる音がしていた。

オイルスキンに身を固めデッキへ出てみた。それ自体の重みでたるんだバウアンカーのチェーンが風の力で張り詰め、スターンのウインドベーンが岸壁に当たっていた。

僕は、バウアンカーのチェーンをつめる傍ら、左隣の巨大な廃船から沖向きに[禅]を保持するラインをとった。廃船は、岸壁から五十メートルほど沖の海底に沈めた頑丈なハリケーンチェーンに係留索をとっているとのことだった。

翌朝、すっかり晴れ上がったパピエテのハーバーでは、昨夜のストームの話題で持ちきりだった。プロテスタント教会前のビーチに錨泊するヨットの何艘かが走錨し、一艘があわや沈没という事故があったそうだ。

走錨したヨットの中には[シーレーブン]がいた。彼らは、ストームの初めから警戒態勢に入り、走錨して艇が岸に打ち当たる寸前にスターン・アンカーのロープを断ち切り、機走で脱出したそうだ。しかし、ぐっすり寝込んでいた[エスカペィド]は、気がついた時には既に激しい浸水が始まっていた。応急処置で、何とか沈没を免れた[エスカペィド]は、朝早く対岸のドックへ曳航されて行ったという。何てことだ!

[エスカペィド]のダレルは、かつてアメリカの高校で音楽の先生をしていた。停年退職後、ありったけのお金をつぎ込んでヨットを買い、積年の夢である南太平洋へやって来た。ところが、彼自身のヨットのスキルは十分とはいえなかった。そこで、マイクと彼の奥さんをクルーとして雇い入れた。しかし、マイクはほとんど無線技師みたいなもので、あまり操船の役には立たなかったし、奥さんも料理以外はやらない。

ストームがやって来た夜半だって、経験のあるセーラーなら事前に警戒をしたはずだ。プロテスタント教会前のビーチは、北風が吹くと、パスから直接波が入る位置にあるのだから。しかし、彼らはぐっすり眠ってしまった。

恐らく、[エスカペィド]は、この先、航海を続けることは難しく、ダレルの夢はここで潰えることになるのだろう。「可哀相なダレル・・・彼もひどいクルーを雇ったものだ」みんなが声をひそめてそういった。

午後、僕らは対岸のドックへ見舞いに出掛けた。何か手伝うことがあれば、力になりたかった。

無惨にも、陸岸にはずぶ濡れの搭載物が並べられ、干されていた。既に僕らが手伝うことは何もなかった。食事はどうしているのと尋ねると、外食以外に方法がないといった。僕らは、彼らを夕食に招待して帰ってきた。

夕方、彼らがやって来ると、まずシャワーへ行ってもらった。そして、日本式のカレーライスを作って食べてもらった。ひと時、昨夜の悪夢を忘れたように寛ぐ彼らを見ることは、僕らにとって、とても大きな慰めだった。


*****

六月二日、ル・トラックで、僕らはマエバビーチ(Maeva Beach)の先にある水族館へ行った。

ル・トラックとは、許認可制の個人営業のバスで、ボンネット式の古めかしい車体に思い思いの原色のペイントが施されている。窓も乗降のドアもなく、走ると容赦なく風が吹き込んでくる。涼しいことでは申し分ないが、スコールが来たら最悪だ。しかし、現地の人々は雨に塗れることを意に介さない。濡れても、気にする前に乾いてしまう。

車内には、両側と真中に三列の木のベンチがあって、何人かは自分よりも大きな荷物を抱えて陣取っている。乗客が持ち込むものなら、およそ制限というものがない。生きた鶏や、時には子豚くらいは平気で持ち込むようだ。客が荷物を積み込むのを、わざわざ乗客や運転手までが降りて行って手伝う。また、運転手が宅配便のようなこともやる。誰かが託した包みが、どこかの停留所で待っている人に手渡されたりする。そして、乗客は、同乗者のよしみで誰もが親しい仲間だ。車内に対話と笑いが絶えない。

時には、走っているバスから陽気なコーラスが聞こえてくることもある。興がのれば乗客の誰かが唄い出す。そうすると他の人々が唱和する。ポリネシア人は、生まれながらのコーラスの天才だ。二部合唱だって輪唱だって即興でやってしまう。歌はたちまち手拍子ときれいなハーモニーの素敵なコーラスになって街を流れてゆく。要するに、何もかもが自由で、誰もがフレンドリーで、厄介なルールや制限もなく、バスは美しい南国の海沿いの道を長閑にひた走る。

僕らは、『キャプテン・ブライの水族館前』でバスを降りた。スミコの発案で、水族館を観たらキャプテン・ブライ・レストランでちょっと贅沢なブランチを摂る予定だった。しかし、月曜日がレストランの定休日とは知らなかった。仕方なく、シャークしかいない水族館を見学し、空きっ腹を抱え、バスで来た道を歩き出した。

タヒチといっても、パピエテを一歩離れると普通のフレンチ・ポリネシアの村と大差はない。そんな長閑な村に続くブルーグリーンの渚の向うには、世界一美しいといわれるモーレア島(Ile Moorea)が見えた。現地の人々の屈託ない笑顔に挨拶を返しながら、マエバビーチを目指して僕らは歩いた。

前方に巨大なマストが見えてきた。タヒチで唯一の超高級ヨットハーバーのようだ。広々とした芝生の先に瀟洒なクラブハウスがあって、その先がマリーナだ。

巨大なマストは、英国カウズ船籍の[アナケナ(ANAKENA)]という一〇〇フィートほどの堂々たるケッチだった。その隣りに、有名な[ウインドワード・パッセージ]が並んでいた。驚いたことに、あの[ウインドワード・パッセージ]のマストが、[アナケナ]のミズン・マストよりも低く、まるで小型艇のように見えた。それは、艇のサイズだけではなく、まさにヨットの威厳、または風格の違いだった。マストの先端には、ロイヤル・ヨット・スコードロンとニューヨーク・ヨットクラブのクラブ旗が眩しくはためいていた。

僕らは、さらに歩き続けた。ファアア空港近くのマエバビーチは、最新のビル型ホテルや海に張り出した優雅なバンガロー、それに大型のショッピングセンターが建ち並び、タヒチの観光の拠点だ。

僕らは、ショッピングセンターのカフェで、ヴァゲ(長いフランスパン)にレタスとハム、チーズを挟んだサンドイッチとココナツを振りかけたカスタードケーキ、そしてコーヒーのランチにありついた。こんな小さなカフェでも、その味覚にはフランスの繊細な味が活きていて僕らを感動させてくれた。

ホリデー・イン・タヒチ。今日も素敵な一日だった。コックピットに腰を下ろし、暮れなずむ街の風景を眺めながら、僕はコーヒーを楽しんでいた。目の前のポマレ通りを車が走り、人々が行き交う。信号機が目まぐるしく赤から青へ、そしてまた赤へ変わる。何もかもが忙しなく動いていた。ふと、僕の心に疲れに似た気だるさを覚えた。

文明の利便性に多大の恩恵をいただきながらも、タヒチに十日間以上も滞在していると次第にその都会臭が鼻についてきたのかも知れない。やっぱり僕らは流浪のヨッティーなんだ。僕は、急に普通の観光客とは違う自らの独自性を自覚した。どうやら腰を上げる潮時が来たようだ。

翌日、僕らは、マルシェ(市場)で生鮮食品を買い込み、タヒチの名残りにドゴール将軍通りの素敵なケーキ屋で美味しいケーキと紅茶を頂いて、モーレアへ向けての出航準備にとりかかった。


[頑張れ、ミネルバ!]

柔らかで微温的なそよ風が肌を撫でて往く。まるで、温もる寝床で素敵な夢の続きをみているように、いつまでもその中に包まれていたい黄昏だった。心地よく暮れなずむパピエテの街を、僕はあてもなく散策していた。

観光客がそぞろ歩くドゴール将軍通り(Rue du General De Gaulle)からパピエテ・ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame PPT)を右に見て過ぎると、急に商店の間口がせばまり照明が僅かに暗くなる。街は観光地の趣きをひそめ、道筋にはローカルの日常が顔を覗かせる。コレット通り(Rue Colette)には、観光地の表通りには見られない電機屋とか自転車屋、小間物屋なども並んでいる。僕は、サウンド・ショップに入って、ポリネシア音楽のテープを買った。

お店を出て、僕はさらに夕暮れの街を徘徊した。歩き疲れ、船へ帰ろうと九月二十二日通り(Rue du 22 Septembre)へ折れる街角で、娼婦が「ボンソワール」と僕を呼び止めた。
「あなた、日本人?中国人?それとも・・・?」パピエテでは珍しくきれいな英語だった。
「日本人」僕が答えた。
「本当に?日本人には見えないけど・・・」
「よくそういわれる、日本人には見えないって。僕はヨッティーで、すごく日焼けしているからね。じゃあ、どこの国の人間に見えるかと尋ねると、誰も答えられない。だから、僕は、海人だよということにしているのさ」
「まァ、素敵なナショナリティー(国籍)ね」そういって、小柄で、少し色黒でチャーミングな彼女が陽気に笑った。

立ち話が軽快に弾んだ。こんな素敵な宵には、素敵な話し相手が欲しかった。まだ仕事には早いという彼女を誘って、僕らは、そよ風が心地よいル・レトロの屋外のテーブルに腰を降ろした。彼女は軽い食事、僕はコーヒーとアイスクリーム。目の前の岸壁に[禅]を眺めながら、僕らは束の間、話に興じた。

彼女は、イタリアが二分の一と、中国とポリネシアの血がそれぞれ四分の一混じっているといった。名前はミネルバ。ギリシャ神話の女神アテナのイタリア名だ。
「智恵と勝利の女神だね。ギリシャでは特に敬われる女神で、その名を称えてアテネという都市が築かれたそうだ」
「私は、イタリア人のお父さんとは会ったことがないの。でも、この素敵な名前をつけてくれたことには感謝しているわ。お金を貯めて、いつかイタリアの大学へ留学するのが私の夢なのよ」
「それは素晴らしい。それでこの仕事をしているの?」
「これだけじゃないわ。昼間は、あなたがミュージックテープを買ったお店でも働いているわ」
「えっ、あのお店に、きみがいたの?」
「いやだ、気がついていると思ってたわ。あなたにテープを売ったのが私よ。だからお茶に誘ったのかと・・・」そういってミネルバは吹き出した。僕もいっしょになって笑った。

彼女は、民族の歴史に関心が深かった。留学して学びたい学科は文化人類学だそうだ。どちらかというと地味な学問だが、全く異なる三つの民族の血が混ざり合った彼女自身にして、究めたい謎がひそむ分野なのかも知れない。

一時間半ほど話に興じ、僕は、ミネルバの夢が実現することを祈るよといって別れた。


**

夜中になって、僕はウォーレット(札入れ)がないことに気がついた。

考えてみれば、ル・レトロでの支払いの折、ギャルソンが持ってきた請求書の黒皮の部厚いカバーにお金を挟み、ウォーレットをそれに重ねてテーブルの上に置いたのではないだろうか。それに違いない。

僕は、急いでル・レトロへ走った。店は丁度、閉店の作業中だった。屋外の椅子やテーブルを取り込み、慌しく働いているギャルソンに僕は尋ねた。
「請求書のカバーの下にウォーレットがあったよ。急いであなたを探したが見当たらなかった。そのかわり、連れのマドモアゼルが脇の道を曲がって行くのが見えた。だから、彼女にそれを手渡した」若いギャルソンが、フランス語混じりの英語でそういった。

ウォーレットには、八万フランほどの現金とクレジットカード、それに名刺などが入っていた。八万フランといえば、ミネルバが二つの仕事で得る二ヶ月分の収入に等しい。遺失物に現金が混じっていれば、日本でだって手元に戻る可能性は薄い。まして、拾得物に対するモラルが全く異なる国において、どういうことになるのだろう。現金はともかく、クレジットカードが唯一私の銀行口座とのアクセスなのだ。紛失届を出して新たなカードが発行されるまでは、私はここを動くことも出来なくなる。

彼女には、僕のヨットが、ル・レトロから見える[禅]であることを告げていた。彼女に僕が期待するモラルがあれば届けてくれるだろう。しかし、あれから五時間も経っているのに、彼女はまだ、[禅]を訪ねては来なかった。明日、サウンド・ショップへ行って、彼女に問いただすべきだろうか。いずれにせよ、夜中では何の手も打ちようがない。悶々とした思いのまま、僕は寝床についた。

午前三時頃、岸壁から僕を呼ぶ声で目が醒めた。ミネルバだった。やっぱり彼女は来てくれた。一瞬とはいえ、ミネルバを疑った自分が恥ずかしかった。

彼女は、ル・レトロのギャルソンから僕のウォーレットを受け取った直後に客を拾ったそうだ。それで、すぐに届けることが出来なくなったのだといった。お金やカードが戻ったことより、僕は彼女の汚れのない心に出会えたことがうれしかった。

僕は、日本の習慣として、落としたお金を届けてもらった場合、一割を謝礼とすることを説明した。さらにクレジットカードの回収が、僕にとってどれほど大きな助けになるかを説いて一万フランを受け取って欲しいと懇願した。しかし、彼女はそれを頑なに辞退し、遂に、一フランも受け取ってはくれなかった。そればかりか、胸の前で十字を切りながら、
「神様に喜ばれ、人に喜ばれることをするのって、とても素敵なことなのよ。あなたは、善いことをするチャンスを私に与えてくれたわ。ありがとう」といった。

街はまだ暗闇の中に寝静まっていた。彼女は、走る車もなく信号機だけが明滅する街へ吸い込まれるように消えて行った。
もうじき、街に新しい朝が来る。
ミネルバにも?・・・多分、彼女はそう信じているのだろう。


***

拾得物だけでなく、あらゆることにモラルがあり、それが国によって大きく異なる。必ずしも、先進国のモラルが優れている訳ではない。ミネルバへの身びいきでいうのではないが、いろんな国で未婚の女性が、学費や留学資金などを得るために、ひそかに娼婦をしているという逼迫した事実を僕は知っている。それは、いつの場合も、僕を心の底からやり切れない思いにさせた。

ミネルバに悲壮感は全くなかった。しかし、さらに尋ねると、将来、結婚相手が決まった場合、絶対にその事実は秘密にするといっていた。だから、まとまったお金を稼ぐ手段ではあっても、勿論それが正当なものと思っている訳ではない。しかも、彼女はその資金で父親の国へ行き、大学へ進みたいという。立派な目的のために費やされる卑近な手段。或いは、将来目的が果たされるにせよ、生涯、彼女だけがこっそり抱え続ける心の傷・・・。卑しいことと決めつけるのは容易い。でも、豊かとはいえない国で、他にどんな手段があるだろう。そして、彼女に夢を諦めろといえるだろうか・・・。

大人として、また一人の男として、僕はとても辛く複雑な気持ちだった。現実という荒海を、誰の助けも借りず逞しく泳ぎ渡る彼女に、僕はただエールをおくる以外、他になにも出来なかった。頑張れ、ミネルバ!




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