■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[パンゴパンゴ(PAGOPAGO)]

九月十九日正午、[禅]はスヴァロフを後にして、西へ四五五浬のアメリカン・サモア(正しくはツツイラ島・Tutuira Is.)へ向かった。

スヴァロフに正確な潮汐表はないから、数日前からパスの干満の時間を観察した。そのデータによると、今日の停潮時は十二時半のはずだった。従って、僕は十二時に揚錨を開始した。しかし、アンカーが揚がらず、かなりの時間をロスしてしまった。まだ間に合うだろうか。一抹の不安を抱え、僕らはパスへ急いだ。

パスに差し掛かった時、潮はまだ停まっていた。胸を撫で下ろし、[禅]をパスに差し向けたその時だった。右後方の視界の隅に、突然、海面が二メートルも盛り上がり僕らに向かって押し寄せて来るのを見た。いろんな潮波を見て来たけど、こんなに唐突なのは見たことがなかった。そして、熱湯が沸き立つような三角波が、たちまち[禅]を取り囲んでしまった。

僕は、スミコに、しっかり何かに掴まるようにと叫んだ。[禅]は、後足で立ち上がった荒馬のように舳先を空に突き上げ、次は激しく水面を打ち、斜めになってあらぬ方向へ突き進んだ。一瞬にして、パスは修羅場と化してしまった。

舵がほとんど利かなかった。スロットルをいっぱいに倒し、僕はエンジンに最大のパワーを求めた。そんなに広くもないパスの両岸には無数のコーラル・リーフが見え隠れし、沸騰する潮波の中で、たったいま生命を与えられた禍々しい獣のように邪悪な牙を剥いていた。その中を、[禅]はもんどりを打つように大きく傾き、よろめき、斜めに走り、荒馬のように立ち上がりして進んで行った。

ゴールデンゲート・ブリッジ沖の潮波も凄かったけど、コーラル・リーフがなかっただけ危機感はなかった。しかし、スヴァロフのパスのそれは、一瞬のミスで命を失う。

時間にすれば、ほんの十五分ほどの苦闘だったのだろうが、そのすさまじさ故に、僕には一時間以上にも感じられた。

やがて試練の時は終わった。僕らは、スヴァロフのバリアリーフ沿いに進み、北端のタートル島を交わした。

快晴、微風。久し振りに走る外洋の海原は青い宝石のように輝いていた。遮るものもない青空を、綿を千切って浮かべたような貿易風雲が[禅]を追い越して行く。全てが順調だ。願わくは、パンゴまでこの海況が続いて欲しいものだ。

僕の祈りが通じたのか、天候はかつてないほど良好に推移した。多少雲が出ることもあったが、それは、夕焼けをドラマチックに演出して、僕らを楽しませてくれた。どちらかといえば風は弱いくらいで、二十二日の未明から午前中にかけての東南東二十五ノットが最も強い風だった。

航行に苦労したのは、むしろ巨大なうねりだった。真後ろから、小高い丘ほどもあるうねりが押し寄せ、スターンを持ち上げて船底に潜り込み、舳先を抜けて通り過ぎる。都度、行き足は奪われ、うねりの底に不安定な格好で[禅]は置き去りにされる。弱い風をセールに受けて帆走の姿勢に立ち直ると、それを待ち構えていたように、次のうねりがやって来て、再び艇速を奪って通り過ぎた。

二十三日の午前一時、アメリカン・サモアの真西六十七浬にあるマヌア島(Manua Is.)沖六浬を通過した。十度ばかり北に変針して[禅]のラストスパートが始まった。

平均艇速五ノットをキープして、パンゴパンゴ・ハーバー入口に午後二時半の到着が見込まれる。しかし、風向や風速、或いはうねりなどの影響で、平均して五ノットを維持することは非常に難しいものだ。僅かな手違いで、五、六時間のズレは簡単に生じてしまう。うっかりすると、アメリカン・サモア南岸に広がる不気味なショールを前に、一晩ヒーブツーなんてことになりかねない。今は、走れるだけ走って距離を稼ぐことだ。

昨日の強風の名残でささくれ立った暗黒の海を、[禅]は六、七ノットで突っ走り、僕はついに一睡もすることはなかった。

結果、[禅]は午後二時、現地時間に修正して午後一時にハーバー入口に到着した。

(註/PAGOPAGO・パゴパゴと書いて『パンゴパンゴ』と発音する。これは、フィジーなどにも見られる独特な言語習慣だ。例えば、NADIはナンディーと読む。)


**

ツツイラ島は、雨に閉ざされていた。正に、サマーセット・モームの『雨』の舞台となった島だ。

港への水路は広々と、真っ直ぐ北へ向かって伸びていた。左側の陸地には美しい公園や現代的なビル、そして、モームゆかりのレイン・ホテルが見えて瀟洒だ。しかし、右側には、真っ赤に錆びた廃船がリーフに打ち上げられ、その先には、この近海で獲れたマグロを加工する巨大な工場と漁獲を荷揚げする漁船が犇いていた。

工場の排水で港内の水は極限まで汚れていた。海水の表面は油染みた茶色の層に覆われ、その僅かな飛沫にさえ身震いするほど嫌悪を催す。しかも、水中にはありとあらゆる種類のゴミが浮遊し、不透明な水中のそこら中にビニール袋が漂っていた。

雨雲が駆け足で通り過ぎると、正面には垂直に1600フィートまで駆け上がるアラヴァ山が、滴るばかりの濃い緑の壁のように僕らの眼前に現れた。かつては、南太平洋の島々に劣らぬほど美しい島だったのだろう。しかし今、ケチな利潤を追求する産業が全てを台無しにしてしまった。

ある時、海外協力隊の青年の話を聞いた。島民に漁法を教えていると彼はいっていた。彼の伝授する漁法は、島民も目を見張るほどの魚を獲った。彼は、更に効率を高める方法を指導した。そうしたら、島民は、そんなに魚を獲ってどうするのかと尋ねたという。彼は、魚をたくさん獲って、村人や他の島の人々に売れば、お金が儲かり、あなたは金持ちになれると説明した。更に島民が尋ねた。そんなにお金を稼いでどうするのか。ぼく達は、毎日食べるだけの魚を獲っているし、生活に必要なお金も持っている。使う当てもないお金まで稼いで金持ちになって、それが幸せだとはどうしても思えない、と。

アメリカン・サモアの島民はどう考えるのだろう。確かに、この島には、アメリカからあり余るほどの物資が入ってくる。目の前に欲しい物が溢れ、それを手に入れようという欲求にひとたび心を浸した瞬間、島民たちの純潔は潰える。そして、尽きることのない物欲と利害に翻弄される生活が始まったのではないだろうか。そうした生活感の激変が象徴するのが、パンゴパンゴ港の恐ろしいほどの汚れだった。

実に残念なことだが、アメリカン・サモアが僕に与えた印象は、自然と文明の狭間で人間の美しさを喪失してゆくプロセスを垣間見るという悲しさだった。

スヴァロフから[禅]の出航が二日も遅れたから、もうトンガのババウ諸島へ出航したとばかり思っていた[独尊]ファミリーが、突然僕らの前に現れた。[禅]を訪ねてくれたカスタムスのオフィサーもそっちのけで、積もる話に花が咲いた。オフィサーも、異国で日本人同士が出会った喜びと理解して、僕らが話しに興じる間、傍らで待っていてくれた。

オフィサーたちはとても親切で、僕らを彼らの車に乗せてポート・マスターのオフィスまで連れて行ってくれたし、イミグレーションなどの手続きもフレンドリーで、簡潔に事が進んだ。

[独尊]ファミリーは、ホットシャワーやランドリー、美味しいアイスクリーム屋やパーツ屋などを教えてくれた。また、[4・4・II]のノビさんが作成した緻密なパンゴパンゴ案内図の引継ぎもあって、暫しのパンゴ暮らしに大いに役立った。

その案内図は、ここの政府機関に勤める日系アメリカ人のジョージ荻原氏に渡し、次に来る日本人に渡してくれるようにお願いしてきたが、今にして、せめてコピーでも撮っておくべきだったと悔やまれるほどよく出来たものだった。例えば、『クルージング・ガイドなどに記載されたパーツ屋は、昨年の火事で焼けて現存しない』とか、『マーケットへ行くには、何番のバスに乗れば乗り換えなしで行ける』とか、『どこそこの八百屋は、朝八時前に行けばどこのお店よりも新鮮で安い』とか、足で集めた実際に役立つ情報が満載されていた。


九月二十五日、ブラッキーの[LOVE]が入港してきた。彼と息子のフォレストは、スヴァロフを僕らに数時間遅れて出航したはずだった。その僅かな遅れが、[LOVE]を大時化に巻き込んでしまった。どうやら、僕らは、その時化のすぐ前を、かつて経験したこともない快適な航海と嘯いて走っていたことになる。気象のツキなんて全く気まぐれで、こんな些細な違いによって天国と地獄に分けられてしまうものなのだ。

結果、[LOVE]は、[禅]に二日も送れてパンゴに到着した。しかもその二日間、彼らは大時化にもみくちゃにされていたことになる。

到着したブラッキーたちは、徹底的に消耗していた。そして、そのせいかどうかは分からぬが、アメリカ人の彼と息子は、アメリカ領のこの島で今期のクルーズを終了し、働きながら長期滞在するといった。その後、彼らに会うことがなかったから、彼らが航海に復帰したかどうかは知らない。

外洋ではさらに大時化が続いていた。そのために逃げ込んで来るヨット、または、出航出来ずに居座るヨットで港内は混雑を極めていた。

[独尊]もまた、足止めを喰らったヨットだった。僕らを迎えたらすぐにもトンガへ向かう予定だった彼らは、結局二十七日まで出航することが出来なかった。

その間、僕らはさらに親交を深め、毎日のようにディナーを共にしたり、倫子さんとスミコはいっしょに買い物に出掛けたり、碧ちゃんと僕はより一層仲良しになった。

しかし、何といっても、エンジニアの馨くんが[禅]のエンジン系統をメンテナンスしてくれたことがありがたかった。

最近、クラッチのスロットル・ボタンを押し込んでも、エンジンとプロペラシャフトが連結しないことが度々あった。込み合った港内などでは、この手の故障は大問題だ。

馨くんは、ギアが磨耗しているのでしょうといってスロットルを分解した。彼のいうとおり歯車が片減りしていた。さて、パーツが手に入るだろうか。彼は、純正部品は無理ですといって、片減りしたギアを裏返し、固定するピンが収まるスリットをドリルで削ってはめ込んで直してしまった。

機械音痴の僕は、馨くんの手際の良さに驚いてしまった。そして、長距離航海中の故障に対応して、『(部品が)無ければ作れ』ということは、こういう臨機応変の発想をいうのかと感心させられた。

さて、試運転ということでエンジンを始動した。クラッチは、快適に着脱した。そうこうするうちに、今度は冷却水温度の異常を告げるブザーが鳴り出してしまった。

馨くんにしてみれば迷惑千万な話だろうが、どうやら乗りかかった船という諦めの心境らしい。スルーハルのインテーク(船底を貫通して海水を取り入れる個所)から順を追ってチェックしてゆく。特に故障個所は見当たらない。僕は、ゴミが詰まっていないかと、パンゴの汚れた海水が噴出するインテークを針金や割り箸で突いてみたり、インペラを交換したり、差し当たって思いつくメンテナンスをし終えた。その後の試運転で、約一時間、エンジンに異常は発生しなかった。


前出のジョージ荻原氏が、或る日、僕らを車で島巡りに連れて行ってくれた。

パンゴパンゴの街と港は、アメリカン・サモア(ツツイラ島)の南岸にある。車は、不調和にアメリカナイズされた町並みを抜けて外洋に沿った道路を西へ走った。所々に点在する商店などを除けば、南太平洋の島々と少しも変わらなかった。そればかりか、パンゴを遠く離れるとサモア特有の文化が垣間見え、その誇り高く整然とした佇まいに、僕らは感動さえ覚えた。

広々とした芝生に建ち並ぶ瀟洒な家々と、その庭先には、ファレと呼ぶ接客や儀式に使われるらしい柱と屋根だけの美しい建物がある。それらを取り囲むように花々が咲き乱れ、自然の中に調和したサモアの生活があった。

美しい!こんなに素晴らしい文化を捨てて、何故パンゴはあんな風にアンバランスな街になってしまったのだろう。しかも、上っ面だけのアメリカを真似た大勢の、実際にアメリカを見たこともない若者たち・・・。僕はそれと気づかずに毒されてしまった彼らを見るのがとても辛かった。

島の北西側には小さな村があって、その風姿には、日本のひっそりとした山村を思わせる落ち着きがあった。

村はずれでジョージは車を停め、すっかり荒廃した要塞のような所へ僕らを案内した。それは、第二次世界大戦で、攻め寄せる日本軍に備えて作られたものだった。実際に交戦があったかどうかはジョージも知らなかったが、砂上の楼閣のようなパンゴの繁栄に比して、サモアの島民たちが一丸となって立ち上がった歴史があったということが僕を安堵させてくれた。

サモアには、ここツツイラ島・アメリカ領サモアの他に、ウポロ島とサバイイ島からなる西サモアという国がある。聞くところによれば、サモアの伝統的文化は西サモアに色濃く残っているそうだ。僕らは先を急ぐ事情もあって、それを覗き見るチャンスがなかった。

だから、若しジョージが僕らを島巡りに連れて行ってくれなかったら、僕らはとんでもない誤解を抱いたままサモアを後にしたことになる。ありがとう、ジョージ。これで僕らは安心してトンガへ向かうことが出来る。


[トンガ(Tonga)]



十月一日。トンガ王国のバヴァウ諸島(Vavau Group)へ向け、[禅]はパンゴパンゴを出航した。

本当は昨日出航の予定だったが、出国手続きをして回る先々で、強風警報が出ていると警告された。海上は三十五ノットのゲールが吹くという警報だったが、結局は吹かず、今朝には解除になった。そして、翌一日、午後一時、僕らはみんなに見送られてパンゴを出発した。

しかし、アンカレッジ水域を出てマグロ漁船が屯する辺りに差し掛かった時、あんなにいい感じで回っていたエンジンが、冷却水温異常のブザーをけたたましく鳴らした。何てことだ!

エンジンを止めて思案していると、港内のヨットたちがそれと察し、「戻っておいでよ。もう少しパンゴに留まれというお告げだよ」と、VHFで心配とも揶揄ともつかぬメッセージを僕らに投げ掛けた。

一方、スミコは、帆走中にエンジンなんか要らないのだから、このままトンガへ向かうと主張する。確かに、港内へ戻っても、パンゴでは確実な修理が出来るアテがない。僕の気持ちもこのまま出航へと傾いていった。

[禅]は、狭い水路を、久し振りにヨットらしくタックを返しながら風上へ間切り、港内のヨットたちの視界の外へ、そして外洋へと進んで行った。

水路を出ると、バヴァウへの針路を二〇五度に定めた。風向は南東、風速は二十五ノット。今までの航海では、ほとんど真西へ向かって追い風で走っていたが、このレグは南へ向かう。状況次第ではかなり厳しい登り航が予測された。とはいえ航程はたかだか三百三十二浬、三日間の辛抱でしかない。そう腹を括って、メインシートをグイと詰め、セールにしっかりと風を入れた。


それにしても厭な波だ。ツツイラ島南岸の海底は浅く不規則な形状をしているから、波は大きく、しかも変則波ばかりだ。艇体がよじれるような走りに、僕らはたちまち船酔いに陥ってしまった。

夜半から風はやや南へ振れた。しかも、風速は三十ノットに吹き上がり、ブローで三十五ノットにもなった。今や、トリムはぎりぎりのクローズド・ホールドだった。3ポイント・リーフのメインに六十%ほどのジブという帆装で、[禅]は七ノットで突き進んでいた。しかし、波による激しいローリングと船体が割れるかと思えるほどのウォーター・ハンマーに、走りは決して滑らかとはいえなかった。

明け方になっても、そして翌日も海況は荒れ続けた。空振りに終わった航行警報が、今頃になって現実のものとなって[禅]を襲っていた。

最悪のレグだ。三十五ノットの風も、追っ手ならさしたる苦労はない。しかし、それが斜め前からの風となると、言語を絶するばかりに凶悪になる。ヒーブツーをするには波が悪過ぎた。かといって、風を後ろに受けて走ってこの急場を凌いだら、その後の航路に多大の苦労を残す。今は、これで走るしかない。

三日になって、風向がアビームに変わった。艇の走りは随分楽になったが、相も変らぬローリングに食事もままならぬ。それでも、走り続けた甲斐あって、お昼頃には残航が一〇〇浬を切った。もう少しの辛抱だ。


四日、朝七時。夜が明けて、水平線にバヴァウ諸島の低い山並みが見えた。

やっと来た。そして、途中の無線交信で、日本の局を中継して、[独尊]がネイアフ港(Neiafu)への水路手前で待機し、エンジン故障の[禅]をサポートしてくれることになっていた。もう、何一つ案ずることはない。

皮肉なもので、バヴァウが近づくと、空を覆っていた雲はきれいに払われ、風は二十ノットに安定した。海はインクを流したような藍色に煌き、三日間も僕らを苦しめ続けたことが嘘のように穏やかになった。

バヴァウの景観は新鮮で美しかった。今まで通ってきた島々は珊瑚礁に囲まれたものだから渚は眩しいほどの白色だったが、バヴァウの島々は、明らかに火山の隆起による異形をしている。水面から黒々とした崖が垂直に立ち上がり、その上に、キノコ状に緑の島が乗っかっているという感じだ。海の色も、珊瑚礁の輝くように透明な青ではなく、重厚に深い藍を湛えた色合いだ。

僕は、VHF無線で[独尊]をコールした。応えたのは、もうここにはいないと思っていた[4・4・II]のクニさんだった。


**

[禅]は、馨くんとクニさんにガイドされて、無事ネイアフへの水路途中にあるカパ(Kapa Is.)という小島の入江に錨を降ろした。水はあくまでも清く、緑青色に澄みわたっている。

馨くんがアンカーのホールディングを確かめに潜ってくれた。その序に、彼は、[禅]の船底を調べた。

「こんなモン詰まっていました。これじゃ冷却水温上がりますよォ」

水面に顔を出した彼は、手に持ったぼろぼろのビニール袋をかざして見せた。何てことだ!パンゴの海中に無数に漂っていたヤツだ。思えば、この手のビニール袋をペラに絡め、ディンギーに取り付けた船外機のシェア・ピンも折ってしまった。あれもパンゴだった。僕の胸に、エンジン故障の原因が分かってほっとした気持ちと共に、野放図に海を汚すパンゴの缶詰工場への怒りが再び燃え上がった。


通常、入国手続きを完了せずに入江などで錨泊することは違法とされる。

しかし、今日は日曜日で入国手続きが出来ない。カスタムスの桟橋に[禅]を着岸させることも出来ないから、明日までこんな風に入江でアンカーリングしている以外しょうがないのだとクニさんがいった。

トンガでは、日曜日は安息日として厳格に労働やプレジャーを禁止している。男も女もゴザのようなラバラバというスカートで正装して教会へ行って祈る。その後は、夕暮れまで神について考える日なのだ。冗談ではなく、働いていたりすると警官に逮捕されることもあるそうだ。

しかし、待てよ。今日は十月四日の土曜日だろう?

そうすると、クニさんが、

「いや、トンガの首都ヌクアロファ(Nuku Alofa)は、南緯二〇度五六分、西経一七五度、即ち、日付変更線から五度も東に位置するのに、トンガの国法として、日本と同じ東経の時間計算をする。トンガは、世界一早く一日が始まる国なんだ。従って、今日は、トンガでは十月五日の日曜日である」と宣った。

僕にしてみれば、十月三日の次が十月五日だ。僕の十月四日は、どこかへ消えてしまった。

まあ、しょうがない。失われた一日を惜しむより、一日飛び越えてしまった今日を大いに楽しむことにしよう。

それにしても静かな入江だ。ネイアフへの水路では二十ノット以上の風が吹いているというのに、カパの入江は無風で、[禅]がゆらりとも揺れない。シュノーケリングをしたり、海中の洞窟を見物したり、デッキで四方山話しに打ち興じたり、夜は、久し振りにみんな揃って[4・4・II]でディナーを楽しんだり・・・。

夜十時、僕らは苦しかったレグの疲れを休めるべく、微動だにしないベッドで眠りについた。




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