ご報告

初冬の候 皆々様方は如何お過ごしでしょうか
さて 夫 西久保隆(通称ZEN)は4月より肺炎で入院しておりましたが
去る9月30日真菌血症のため永眠いたしました。茲に生前のご厚誼を深謝し
謹んで申し上げます。
猶 本人の強い遺志により葬儀は近親者のみで相済ませ、遺骨はヨット仲間数人の
ご協力を得て相模灘沖の海中に散骨しお別れと致します。

永い間ZEN(禅)HPをご愛読いただきました皆様方の末永いご健康をお祈りし 
ご報告と致します。

妻・和子(wako)

2007年10月2日(火)/曇り

こんにちは!
おせっかいだとは思いますが、イギリスはアメリカズカップの歴史の中で1度もタイトルを手にしたことがなく、したがって防衛艇を作ったことはないと思います。 by K/IWAMOTO — 2007/10/1
上記のようなコメントが入っていました。早速、アドレスを探し当て、返信のメールを送りましたが、何度送信しても“User Unknown”で戻ってきます。そのメールの内容は:
>確かに、仰るとおり、アメリカス・カップでイギリスが防衛に回ったことはありません。ヨットマンとしてあまりにも常識的な誤りでお恥ずかしい限りです。訂正しお詫びいたします。 zen<
こういうのって、気になりますよね。
あ~、これは明らかに私のミスだと認識し、間違いの記事を書いたお詫び共々お知らせしなければと思ってメールが届かない。昨日から、私はこのことに懸かりっ切りで、すっかり気もそぞろでした。
私がブログの片隅に間違った記事を書いたからといって、世間の大勢には何の影響もないことです。しかし、間違いを犯した事実に変わりはありません。ですから、はじめはご本人にお知らせしお詫びすればと考えたのですが、メールの不通をきっかけに、書いたブログのその場で訂正しお詫びしなければと思い直した次第です。冒頭、私事で恐縮です。

急に秋めいてきました。
今まで短パン・Tシャツだったのに、Gパンと綿ニットの長袖なんか引っ張り出して着込んでいます。海人間にとって、つい先日まで猛暑に苦しんだことも忘れ、暑さが遠退く寂寥感が切実で、われ知らずため息を漏れます。
9月の半ば、たまたま私の誕生日に、諸礒のPUFFというヨットのお誘いをいただき、珍しく体調も良かったので久し振りにヨットに乗ってきました。
動けば喘息でゼイゼイと息を切らせてオーナーやクルーの方々にご心配をお掛けするのですが、沖へ出た途端、体が自然に動いて、いつの間にかメイン・シートを仕切っていました。ヨットというものは基本的にはどの舟も同じですから、初乗りの船でも操作に迷うことはありません。
それよりも、船の動きに応じて体が自然に動くという身に沁みたシー・ワージネスには、我ながら驚きました。幸か不幸か、当日は海がかなり荒れていましたから、沖合いの小網代ブイを大回りして、すぐホームポートに戻りましたが、バウが波にぶち当たって上がる生暖かい海水のスプレーに思わず漏らす笑みは、恐らく青年期のそれと些かも違いはなかったと自負しております。
もっと私は海へ出なければいけません。体の健康だけじゃなく、精神に若さと活力を持続するためにも。
海へ行けば、同じ趣向の人々がデッキに集い、私の拙い航海談義などを喜んで聞いてくれます。話す私は、その時だけは、果てしない大洋を“禅”に乗って雄々しく帆走しています。喘息も肺気腫も老齢も忘れて。
海はいいですねェ~。身のハンディキャップも年齢も、何もかも大らかに公平にその懐に受け止めてくれます。本当に、海はいいです!

2007年7月12日(木)/雨

台風4号が南海上で本土をうかがっている。
そろそろ、この時期は次々と台風がやってくる季節だ。いつだったか、台風が大暴れして過ぎて、台風一過のタイミングで梅雨が明けたことがあった。夏を目前にして、心に海を抱えている人にとって、そわそわと落ち着かず胸躍る季節だ。
身体が思うように活動してくれないから、この季節、昔のようにヨットにのめり込んでいるという訳にはいかないけど、インターネットを通じ、情報だけはいくらでも入ってくる。
アメリカスカップの決勝が、歴史的僅差で勝敗が決まったとか、大昔(現在のクラスボートの2代前。12m級の前代)のアメリカス・カッパーであるJボートの「Endeavour(エンデバー)」がいま日本に来ているとか・・・。
随分昔になるが、舵誌のグラビアでJボートの写真を見たことがある。ブームはマストからスターン(船尾)までいっぱいに延び、マストの高さは我々の常識を遥かに超えて高かった。ランニングの風を受け、スピンネーカーとジェネカー、それに巨大なメインセールを左右に大きく開いた様は、大鷲が誇らしげに翼を広げた姿に見えたものだ。確か、1930年代のイギリスの防衛艇だから、建造70年を遥かに超えている。しかし、その船型の美しさは、これぞヨットというべき美の究極といって過言ではない。
話が風任せで、あらぬ方へ流れてゆくが、かといって別に定めた話題があった訳でもない。まあ、たまたま珍しく郵便受けに手書きの葉書が舞い込んだことに、随分ご無沙汰のこのページに書いてみようかと心が揺れたことが発端ではある。

葉書の主は、ヨット「あうん」のオーナー、九里(くのり)さん。投函地は沖縄・宜野湾市である。彼は、気楽に日本全土を一回りしようと愛艇でクルーズ中である。
彼は、過日、鹿児島の谷山港から電話を掛けてきた。「谷山に舫をとったら、周りに「海連」や「ファーザー」がいる。急に、zenに電話してみたくなった」という意味のことをいっていた。ご存知のように「海連」は今給黎教子、「ファーザー」は山脇一郎(通称・ケンちゃん)のヨットである。
折角だから、噂に聞く、鹿児島の熱いセーラー魂に触れてもらいたくて、各方面にメールやら電話をして、ホスピタリティー方々、お引き回しをお願いした。
そんなご縁から、7月5日に沖縄・宜野湾に入港したというお知らせの葉書を頂いた訳である。

文面は、連日の猛暑、近づく台風シーズンに触れた短いものだが、葉書の下半分、僅かにヴィリジアンを滴らせたセルリアン・ブルーの絵の具を、ずぼらな筆で捉われるものもなく置いたような彩色があって、その下に「宜野湾の海」とキャプションが記されていた。
それで充分だった。私の想いは、心を吸い寄せるような南国の海にいざなわれ、久しく文章を編む意欲も起こらなかった私に、このページに何かを書き訴えたいと思わせるインパクトを与えた。

3月29日(木)/快晴・強風

花に嵐とはよくいったもので、桜の満開時には、花を散らしはせぬかと気を揉ませる風が吹くものだ。今日もまさにそういう風は吹き荒れている。
また、こういう日、つまり、前線が通過中で強風が吹く日は、私の偏頭痛の日でもある。朝から、頭の中を通奏低音のような痛みが反響してとどまることがない。何をやる気力も湧かず、ただ時折頭を拳で叩いてみたり、こめかみを指で押さえてみたり、気象が安定して頭痛が去るまで無為な時間を悶々と過ごしている。
しかし、悶々と無為に、或いは、無気力に日々を過ごすのは、何も偏頭痛ばかりに起因するとは限らない。
先日、あまりの不甲斐ない自らを顧みて、一体どこで気力を置き忘れてきたのだろうと考えてみた。
あんなにも身を削り鎬(しのぎ)を削り、他と競って一歩もひけをとらず、むしろ常に勝ち組に勝ち残り、仕事に趣味に新境地を切り開いて来たではないか。その勢いをそのままに、単独、ヨットを駆って世界の海へ挑んだあの気力は、一体どこへ消えてしまったのだろう。

25年間勤務した会社を、突然たった3時間で辞め、世界の海へ想いを馳せた。毎日、寸暇を惜しんでヨットを整備し、傍ら、未知への心を練った。全ては覚悟の問題だった。最悪でも死ぬだけだ。しかも、単独だから誰をも巻き込まず、誰にも迷惑はかけないということが心の慰めだった。まあ、死ぬつもりで海へ出掛けて行くわけではなく、生きて世界の海を楽しむことが本意だから、世界中のパラダイスといわれる所を研究した。ヨーロッパに辿り着いた時を想定して、ギリシャ神話は徹底的に学んだ。

でも、不思議なことに、航海が終わった後のことは、全く考えることがなかった。
今にして思えば、航海の後に自分の人生が続くということに想いが及んでいなかったし、航海後の人生なんて、はっきりいってどうでもよかった。
講演などで航海談の締めくくりに、私はよく『ヨットを駆って世界の海へ出て行くということは、今までの人生に一区切りつけて、もう一つ別の人生を始めるということです。それほど画期的に、未知の世界で未知の自分を発見することなんです』と話す。
人の未来なんて誰にも分からない。医者に余命1年なんて宣告されても、私の知人に既に3年も生き永らえているしぶとい奴もいる。だから、航海後の人生を計画しなかったからといって、私の人生の道筋が消え果てているというものでもない。時間は着実に流れ、いつの間にか、正に老耄の世代に足を踏み入れている。そればかりか、自ら予測もしなかった物語が展開し、人の世の、或いは人生の機微に一喜一憂し、時に感じ入ることもある。

しかし、航海計画と共に、航海が終了した後をどのようなシナリオで生きて行くかを、航海に先駆けて考えていなかったという不用意が、今、この人生の無気力と不如意を象徴しているように思えてならない。若しかすると、日々の暮らしはお釣りの人生ではないのか?航海の終わりで、本当は私の人生は終わっていたのではないか?そんな風に思うと、ついつい生きる気力に下っ腹の力が入らない。
そんな無気力な私を客観的に観察してみた。
あ~でもない、こ~でもない、そんなことを常日頃ぼやいて日々を送っているのも、如何にも年寄り臭く、どうやら年寄りの習い性のようなものらしい。その証拠に、ヨットだドライブだと、結構連れ合いと若者みたいにはしゃぎ回って日々を送っているではないか。ぼやく前に、不用意な人生にも拘わらず、それなりの充実と感動を与えてくれる周囲に感謝する心を忘れてはならない。落語の『小言念仏』ではないが、ぼやきの合間に、折々、感謝の言葉を挟むことを肝に銘じておかなくてはなるまい。

2007年2月20日(火)/雨のち曇

通常、僕は人に借りた本は読まない。
僕にとって読書とはファッションと同じだ。僕は人に借りた衣服、或いは、誰かに与えられた衣服は着ない習性だ。だから、自分で選んで買った本以外は読まない。
僕の蔵書はかつては膨大だった。しかし、1995年に航海に出掛けた折、4分の3を処分し、どうしても手元に置きたい4分の1はヨットに積んだ。ヨットに積載した荷物で一番嵩張って、しかも重量があったのは僕の蔵書だった。本は、僕にとって、或る意味、僕の知的履歴だと思っている。だから、意図して手にした本は必ず手元に残す。だから、自分で選んで買った本以外は読まない。
しかし、この度、僕に読ませたいと或る人に預かったという本が手元に届いた。それは、浅倉卓弥の「四日間の奇蹟」という本だった。しかし、その本は僕のこだわりから数日間、机の上で埃を被っていた。
最近は本も高くなって、そう安易に買いあさる訳にはゆかない。さらに、僕は、気に入って買った本、従って、手元に大切に保存している本を、何度読み返しても少しも退屈したりはしない。本というものは、読む年代、読む時の環境、僕自身の気分や心に掛かっている課題などによって、その都度新たな感銘を与えてくれる。
最近は、前のこの『手紙』にも書いたように上田三四二の「うつしみ」を読んで後、やはり上田三四二の評伝「西行・実朝・良寛」を読み、増谷文雄の「業と宿業」を読み、石原慎太郎の「風についての記憶」を読み、トルーマン・カポーティの「草の竪琴」を読んだ。そして今、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んでいる。それら全ては、どれも最低5回は読み返している。
さて次は何を読もうかと逡巡している時、机の上の「四日間の奇蹟」が目についた。
文体に馴染むまでは、さしたる期待もなく活字を辿っていたと思う。ただ、脳生理学と音楽に関する知識が相当のものだと感心した。ご存知の方も多いと思うが、特定な何かを文章に書く場合、ありったけの知識を全て書いたら、その文章は薄っぺらでとても読むに堪えない。せいぜい、10の知識があれば2か3程度しか書けないものだ。だから、この見識には些か驚いた。解説で書評家が、文章から音楽が聞こえてくるような文章と書いていたが、実際、その通りだと思って読み進んだ。
面白いことに、この本のテーマは、「肉体を離れて、心は存在し得るか」ということだった。そしてそれは、やがて心とは何だろうということに展開して行く。つまり、上田三四二の「うつしみ」で、「心は脳の働き以上の何ものでもないことを証明しようと努めるのは、科学者として当然のことだ。しかし、私はどうしても心の働きを脳の仕組みで説明することは出来ないと気がついた」と述懐したアメリカの脳生理学者の言葉と重なってくる。この本を僕に読むように勧めてくれた人は、多分、僕の『手紙』を読んだのに違いない。
「四日間の奇蹟」でも、脳と心の関わりと、どうにも説明がつかない脳と心の断絶に苦悩している。
心は、多分、脳の活動なのだろう。しかし、現代の脳生理学において、脳と心が直接結びつくことはない。いや、果たして現代の脳生理学でだろうか?
脳と心の結びつきについて、人間は古代から気づいていたのだと僕は思う。恐らく、これは人類の直感なのだろう。しかし、古代でも、現代の脳生理学が突き当たっているとほとんど同質の脳と心の断絶、直接的に結びつかない底知れぬ断絶に行き当たった。何とか解明したいが乗り越えられない深淵がある。そして、その深淵を埋めようと発明されたのが宗教であり神なのではないだろうか。
思えば、文学作品にせよ評論にせよ、そのほとんどがテーマとして取り上げるのが心であり、魂や命であり、そして死だ。いいかえれば、芸術に限らず、人間は心を求め、その実態を知ろうと悩む。前の『手紙』にも書いたように『命や心というもんは、自分のものでありながら自分の自由にならんもんや。それは預かり物やからだ』と仰った東大寺の前管長、清水公照師の言葉のように、生涯をかけて命や心というテーマを中心に人間は彷徨する。そして、公照師が『預かり物』といわれる部分が正に断絶であり深淵であり、そして、それを埋めようと試みる神なるものなのかも知れない。
脳生理学者は、脳という臓器のそれぞれの部分がどういう役割を果たすかという研究を手掛けたのは、つい50年ほど前のことでしかなく、まだまだ分からないことばかりだという。しかし、僕は、どれほど現代の科学や専門的な脳生理学が進歩しても、直感的にであれ古代から模索し続けてきたこのテーマが解明されることはないのではないかと思う。人類の永遠の不知なるテーマ・・・心とは、多分そういうものなのではないのだろうか。

2007年1月27日(土)/快晴・西の強風(大西)

暖冬の毎日が続いております。もう、地球温暖化云々は云い飽きましたが、かといって無視できるものではなし、また飽きたり慣れたりしてはいけないことです。車も電気もない昔の生活に戻ることは出来ないとはいえ、どこかでこの地球を食い潰す行為に歯止めをかけなくてはなりません。人類の総意を一つに纏め上げる救世主が現れないものかと待ち望んでおります。
去る1月9日(前回)の手紙に一つ書き落としたことがあります。従って、以下はその続編のようなものです。
歌人で脳神経医の上田三四二氏が、神田の古本屋で、アメリカの著名な脳外科医ワイルダー・ペンスフィールドの著書『脳と心の正体』を見つけたことをお話しました。その中に、ペンスフィールドが、「神経生理学者が、なんとかして心は脳の働き以上の何ものでもないことを証明しようと努めるのは、科学者として当然のことだ。しかし、このモノグラフをまとめるに当たって、私はどうしても心の働きを脳の仕組みで説明することは出来ないと気がついた」と書いていたとお知らせしました。
心って何だろうということは脳の専門家も私たち一般人も、等しく無関心ではいられないことです。或いは、一度もそんなことを考えたことがないという人は皆無といっていいでしょう。私が禅に深く関心を寄せたのも正にそういうことです。
参禅とは、座禅という行為を通してそうした疑問に分け入ることです。さらに、その疑義をさらに深めるために入室参禅(にっしつさんぜん)といって、師家に一対一で面談し禅問答をいたします。問答は、古くから用いられた問題集のようなものがあり、『無門関』や『碧巖録』などが有名です。『無門関』は48則あって、その41番目に『達磨安心(だるまあんじん)』という古則があります。
安心とは、波立ち騒ぐ心を沈め、心の平静を得ることです。本文を載せてみましょう。

「達磨面壁す、二祖雪に立つ。臂(ひじ)を斷っていわく、弟子心未だ安からず、乞う師安心せしめよ。磨いわく、心を将(もち)来れ、汝が爲に安ぜん。祖いわく、心を覓(もと)むるに、了(つい)に不可得。磨いわく、汝が爲に安心し竟(おわ)んぬ」

少々注釈を挟みます。面壁(めんぺき)とは、壁に正対して座禅することです。二祖とは、達磨がインドからシナまで海路を遥々やって来て禅を伝えた初祖で、その教えを受け継いだ慧可が二祖ということです。臂をたっていわくというのは、慧可の決心が堅いことを言い表しています。
面壁座禅する達磨に、慧可が、「修行を積んできたのに、私の心は未だに平静を得られません。どうしたら心安らかになれましょうか」と尋ねます。そうすると、達磨は、「不安心というその心を持ってきなさい。お前のために安心させて上げよう」といいます。慧可は、師匠の達磨に差し出すために夢中になって心を探します。そして、「くまなく探しましたけれど心が見つかりません」と答えます。達磨は、「心がなければ、不安心はあるまい。(お前の心はもう安心したよ)」と答えます。
この則に巡り会った時、私はハッとしました。心というものが、手足のように身に具わったもので、自らの自由になるものという思い込みがあったのではないか。そういう位置付けで心を捉えていると、心はいつまでも波立ったまま、仏教でいう煩悩の元の貪瞋癡(とんじんち=貪り・怒り・愚か)の三毒に毒されたままです。
話は飛びますが、前の東大寺管長の清水公照師に、私は随分可愛がっていただきました。その公照師が、ある時「命や心というもんは、自分のものでありながら自分の自由にならんもんや。それは預かり物やからだ」と仰ったことがあります。公照師のお話が先か、達磨安心の則に出会ったのが先かは定かではありませんが、どちらの場合も、撞木でど突かれたように強烈なカルチャーショックを味わい、正に眼からウロコが落ちる思いだったことを記憶しております。
心は個人の意思で造りかえることは出来ません。しかし、心に波風が立たない平静を克ちえることは出来ます。つまり、貪瞋癡を鎮めるのが修行であるということです。何かにつけて引っ掛かる突起や棘のある心を円やかにすること、或いは、心を自由にするのではなく、心から自由になること・・・お釈迦様が説かれた教えとは、つまり、仏教とはそういうことなのです。

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2007年1月9日(火)/快晴

気がつけば、来し方の一年は終わり、はや次の年に改まっています。光陰矢の如し。賀状を書く間もなく、松の内は過ぎました。
そんな訳で、今年もまた、どちら様にも年賀状を差し上げておりません。ご無礼の段、お詫び申し上げます。
さて、新年早々、こういう話題も如何なものかとは思いましたが、人間誰しも老いては避けて通れない難問ですから、あえて書かせていただきます。
家人の兄弟が、近年、先を競うかのように他界しました。世間の常識からいえば、まだまだ先を急ぐほどの年齢ではなく、残された家人にしてみれば、切実な無常感を噛みしめたことでした。
月命日の墓参の或る日、家人が「子供みたいなこと訊くけど、人は死んだら何処へゆくの?」と尋ねました。
15年間禅門で座禅修行を積み、一応、居士号も頂戴した私であることを前提にした質問です。
世間には、仏教は死後の世界と密接に関わるものという誤解が一般的です。それは大変な誤りです。
仏典のどこを探しても、死後のことなどは書かれてはいません。生老病死に起因する人間苦の現世を、如何に幸せに生きるかということを説いたのが仏典なんです。すなわち、釈迦の初転法輪にいう「中道の宣言」「八正道(はっしょうどう)」「四諦説法(したいせっぽう)」・・・これらを実践すれば、人間は誰でも幸せになれるという教えです。それが、いわゆる仏教哲学としてはなはだ難解であるため、大昔の文盲、無教養の庶民にも分かるよう比喩、方便をもって説かれ、それらが本筋であるかのように誤解されているに過ぎません。
家人に対する私の答えは、実にそっけなく、「人間死んだら、ただ無に帰するだけ。何にも残らないし、何にも感じない」でした。
さて、そうはいいながらも、誰が見てきた訳でもないのですから、本当にそうなの?と自らに問えば疑義は尽きません。
そんな訳で、様々な書籍にも目を通します。面白いことに、こういうことに一番遠いところに位置しそうな物理学者や脳神経学者が、真面目にこのテーマで本を書いています。
今回は「上田三四二(うえだ みよじ)」の著書『うつしみ』から例を引きます。
上田氏は、歌人として有名ですが、評論、エッセー、創作でも独自の死生観をもって傑出した多くの作品を刊行しています。しかし、特に興味を引くのは、氏は、51歳までの22年間、国立病院の脳神経科の医学者であったことです。
上田氏は、脳神経医として脳や人間の生死、さらに精神や観念を経て心や霊魂に強い関心を寄せます。基本的には、霊魂や死後の世界の存在を否定するスタンスですが、氏自身のいろんな体験から完全に否定しきれない側面も行間に仄見えます。特に、八歳年下の文学者・高橋和巳の同病による死、さらに夫人の高橋たか子のエッセーに見る死生観、死後、精神(霊魂)は個であることを止めて集合的潜在意識の無限世界へ還って行くという特異な考え方に少なからず触発されているように見受けられます。
或る時、上田氏は神田の古本屋で、アメリカの著名な脳外科医ワイルダー・ペンスフィールドの著書『脳と心の正体』を見つけます。その中に、「神経生理学者が、なんとかして心は脳の働き以上の何ものでもないことを証明しようと努めるのは、科学者として当然のことだ。しかし、このモノグラフをまとめるに当たって、私はどうしても心の働きを脳の仕組みで説明することは出来ないと気がついた」と書いています。さらに、ペンスフィールドは、「脳はコンピュータであり、コンピュータ以上のものではない。コンピュータは外部の何者かにプログラムを与えられ操作されることによってはじめて機能する。そのプログラマーが心だ」といいます。つまり、心は脳以外の、従って身体以外のどこかにあることになる訳です。この結論はショッキングです。(西洋では、こういう場合、それが神だといいそうですが、この場合はそうでなかったのでホッとしました。)
さらに、上田氏は、生死の境を彷徨うばかりの大病を経験し、闘病や手術、そして麻酔の体験に多くを学びます。手術の麻酔から覚醒し、大病=死から身体的に生還してすぐには精神活動が伴わない違和感に、ペンスフィールドのいう身体に精神活動の原点である心が付随したものではないことを感得します。
余談になりますが、その後、次第に精神活動の芽が育ち、身体と呼応する活動を始めるまでを観察し、上田氏は、身体は「内なる自然」であるということに思い当たります。それでも、心、精神、霊魂、或いは死後の世界についての結論は、当然のことながら何一つ出ては来ません。まあ、それを模索し続けるのが人生かもしれませんが。
奇しくも、新年の大般若会の供物袋に、お赤飯や和菓子といっしょに建長寺管長・吉田正道老師の『一大事因縁』の墨蹟が入っていました。ご存知のとおり、「一大事」とは人間の生死(しょうじ)のこと、「因縁」とは、今日只今の生き様とのことです。因・縁・果、すなわち何かの因があり周囲の様々な条件が縁となって、人生の果として顕れます。その果の集積が一生であって、自分自身にとって見栄えのするものであれば、或いは、満足のいくものであれば、死後の世界は問うまでもないことなのかも知れません。

11月24日(金)/雨・11℃

11月24日(金)/雨・11℃

2ヶ月もご無沙汰いたしました。私の単なる不精にもかかわらず、知人の方々からは、健康でも害しているのではないかとご心配をいただき、まことに恐縮至極に存じます。
しかしながら、私の身の回りには、あらためて書くべき出来事もございません。日々耳目を捉えるものは、いじめ、自殺、虐待、世間の当たり前の規範を歯牙にもかけぬ偏執的な殺人、それに、何を感じ何を考えているのかと呆れ返る見当ハズレの政治やあまりにも非常識な行政の腐敗・・・ニュースを見るたびに虚脱感、終末観、はたまた、末法の世、平たくいえば「世も末だ!」と唾棄すべき出来事ばかりなのです。
古い映画に「山猫」というバート・ランカスターが主演した物語がありました。その中に、『群れに投じたら頭目を探せ。それが居なければ自分が頭目になれ』という意味の台詞がありました。そして、私はその台詞の信奉者でした。いってみれば、ある種軽薄な正義の味方のお先棒担ぎだったのかも知れません。ですから、昔なら、このやり切れない思いを正さんと、微力と知りつつも情熱を傾けて行動を起こしていたことでしょうが、古希を過ぎてみれば、いつかなそんな気迫も消え失せ、無力感ばかりが残滓のごとく胸の奥に積もるばかりです。
でも、こんなボヤキを書き連ねるなら阿呆にでも出来ることです。しかし、私の身の回りにそれ以外の出来事もありません。従って、「あらためて書くべきこともない」と相成る次第です。

昨日、インターネットでアメリカに住むLindaさんという日本人女性のブログを拝見しました。その中に、セクハラによる訴訟問題が話題になっていて、究極「文化の違い」ということが語られていました。
私も、アメリカをはじめ10数カ国を旅しながら、生活を裏側からしっかり支えている文化の違いを体験し、それが現象面に現れた軽々なるものではないということを実感してきました。
無数にある体験談の中から一つ顕著な事例を挙げてみましょう。
サンディエゴのコンボイという街で日本食レストランを経営する日本人がいました。私たちは、彼が店を終わると、よくいっしょに遊びに出掛けました。
或る日、彼がひどく落ち込んでいるのでその訳を尋ねました。そうすると、彼は、レストランの経営に行き詰まっているというのです。こりゃあ大変だ~ということで、他の仲間たちとも相談して彼の力になろうということになりました。私たちとしてみれば、経営の行き詰まりとは、当然資金問題だと早合点した訳です。
そこで彼に行き詰まりの事情を詳しく尋ねてみると、ポイントは音楽だというのです。まるで狐につままれたような話です。
事情はこうです。彼のレストランの5,6人の従業員は全員不法滞在のメキシコ人や中南米系でした。彼らの仕事ぶりは、例によって非常にルーズで、経営者の日本人にしてみれば日々歯がゆい思いの連続だというのです。店に出勤してくる時間もルーズなら、勤務態度も遊び半分です。経営者の彼は、日本人の感覚として、仕事は脇目も振らず無駄な私語もせず一生懸命にやるべきものだと信じています。しかし、従業員は、仕事をしているというよりは、持ち込んだラジカセの音楽に合わせて踊っているようなものだそうです。
そこで、彼は、仕事中の音楽を禁止しました。ところが、どんなに強要しても効果がなく、彼が現場を離れると、ラジカセは最大限の音量で音楽を奏で、彼流にいえば、仕事よりも踊っているという体たらくに逆戻りするそうです。業を煮やした彼は、ついに従業員かららラジカセを取り上げたそうです。そうしたら、全員がお店を辞めるといってきたのです。
勿論、どんなにルーズな仕事ぶりとはいえ、それなりの規模のお店に従業員なしでは経営ができません。彼は、従業員の兄貴分のような男を呼び、懇々と説得し、仕事とは斯くあるべきであるとか、待遇面での向上なども約束し、全員を説得するように頼みました。責任感の強いその兄貴分は、経営者と仲間に挟まれて随分悩んだようですが、ついに「僕には彼らを説得はできない」といってきたそうです。
それにしても、彼らは不法滞在者で不法就労者です。お店を辞めれば収入の道は絶たれ、生活は困窮し、下手をすると犯罪にも手を染め、挙句は強制退去、または祖国へ強制送還になる者も出てくるはずです。それにも拘らず、ラジカセと仕事場の音楽を返してくれなければお店を辞めるというのです。
彼らは本当に貧乏です。でも、差し当たって今日明日が食べてゆければ、お金や賃金にそんなに拘っていません。音楽のある毎日は、安定した将来よりも彼らにとっては遥かに価値があり、捨てがたいものなのです。音楽のない一日なんて、彼らには考えられないものなのでしょう。彼らの人生は、日本人の私たちに比べ、遥かに気楽で自由で、それこそ「アスタマニアーナ!」(なんとかなるさ、というスペイン語)なのです。
ついに経営者の友人は、生まれて以来身につけてきた「仕事」というものの厳粛な信念を、かなりの挫折感の中で曲げ、従業員の職場での音楽を承諾したそうです。
その時、彼はつくづく「文化の違いだなァ~!」と述懐していました。
余談になりますが、外国で外国人の中で暮らすということは、正に日々文化と価値観の違いとの葛藤です。観光客なら、物珍しく見過ごすことも出来ますが、実際に外国に住むということは、抜き差しならなく納得せざるを得ないギャップと対峙することでもあるのです。

9月19日(火)/晴・曇・強風

昨日、台風13号が日本海側をかすめて北東へ去った。
今日の目まぐるしい気象は、なまじ台風の直接的な影響を受けなかったが為に、却って台風一過の晴天とはならなかったということらしく、晴れたと思えばたちまちに雲におおわれ、絶え間なく強風が吹き荒れている。
台風13号は、情報によれば、東北・北海道に再上陸して被害をもたらす可能性があると警戒を呼び掛けている。思えば、今を去る10数年前、青森に再上陸した台風が、リンゴに甚大な被害を与え、手掛けていたリンゴ関係のキャンペーンの仕事が、一晩にして無に帰したことがあった。
一年かけて丹精した作物が、一夜にして壊滅した現場を目の当たりにして、自然の脅威のもの凄さよりも、何故か人生の無常を思い知らされたことが、今も記憶に鮮明である。あんな無惨な被害が再び起こらないことを切に願っている。

先日、70歳の誕生日を迎えた。
私としては、60の次は70という当然のなりゆきと考え、70歳の誕生日にことのほか感慨はなかった。
ところが、ある方から、『恙無く古稀を迎えられたことを寿ぎ、お慶びを申し上げます』という祝辞を頂いた。言葉としての古稀が70歳を意味し、通例として長寿(現代ではそうともいえないが)の入口に立ったことを祝うものであることは知っている。しかし、自らに古稀の祝いを身にまとってみて、何故か愕然とした。70歳と古稀が同義であることは分かり切ったことであるのに、本人にとって受け止める意味合いとインパクトは全く別のものだった。
それは丁度、はじめて乗り物で席を譲られた時の当惑に似ていた。自分では年寄りを見かけたら席を譲る気構えでいたのに逆に席を譲られたという、客観的に紛れもなく私が老人であったと審判された驚きである。いや、私の心中に、無視し続けていた老いという自覚はあったはずだ。しかし、人知れず、上手に隠し通していると思っていたのに、それを見事に暴露されてしまったような当惑だった。
古稀を祝われてみて、はじめて70年の来し方を思った。
事細かに或る一年をひも解いてみれば、それは様々な人々とその思惑に行き惑い、思いもかけぬしがらみに絡められ、努力の成果と落胆の波間に浮沈し、勝算もない戦いに見せ掛けの優勢を誇示し、一刻の休養と睡眠を渇望し、日と日の区切りもない活動に自らを鞭打ち、それは驚くばかりに濃密に綴られ、組み立てられている。それが70回も繰り返されたかと思えば、70年は驚くばかりに永い。
しかしまた、65年も昔の幼稚園生の頃、保母に引率されて傷痍軍人の見舞いに病院へ出掛けたという1コマを思い浮かべると、それはつい数日前のことのようにも思えてならない。
邯鄲の枕を借りて炉辺でうたた寝した盧生が、必死の努力の結果次第に立身出世し、遂には栄華を極める夢を見るが、目覚めてみれば鍋の黄梁が煮える間だったという、人生は正に『黄梁一炊の夢』でしかないのだろうか。
私の禅の師匠・菅原義道師は、生前、揮毫を求められると「夢一生」と書かれた。良寛は、貞心尼への返歌に「夢の世に かつまどろみて 夢をまた かたるも夢も それがまにまに」と詠まれた。また、多くの禅僧が『夢』の字を揮毫されるが、夢窓国師の『夢』の墨蹟は国宝としても名高い。
不思議なものである。古稀の言葉を自らのものとして受け止めて以来、先人たちの語った夢の間の生涯というものが見えてきた気がする。そして、まだまだ若いと見栄を張り、はり切ればはリ切るほどに、身振り手振りの隙間に老いが見え隠れする。
まあ、癒えることない生来の偏屈が災いして歳不相応に張り切り、今こそ青春などと嘯き、臆面も無く老醜を曝しながらも自分らしく老いを重ねて行く以外、私には辿るべき道がないこともよく知っているつもりだ。やりたいことは、まだまだ、どっさり残っている。

8月25日(金)/曇り・30℃

今朝から急に秋風が立った。
開け放った枕元の窓から吹き込む風が、レースのカーテンを私の顔にまとわりつかせる。その風がなんとも爽やかで、未明、夢見心地に秋風がそよぎ始めたことを感じていた。
待ち焦がれていたのに、永過ぎた梅雨に阻まれた夏が、到来したと思ったらあっという間に過ぎて行く。今年は何回かヨットにも乗ったし、鎌倉の海浜で泳ぐことも出来た。だから、いつもの夏よりは濃密な季節を過ごしたはずなのに、過ぎてゆく夏は今年も特別な寂寥感を帯びている。

航海をリタイアしてもう何年も経つのに、今頃、ふっと気づいたことがある。
それは、風には音がないということだ。ピュ~ピュ~とか、或いはゴーゴーと風が吹くというし、私たちの身の回りでは確かに風は鳴っている。
しかし、大洋のど真ん中では、風に音がない。
木の葉が風で擦れ合ったり、細い電線やヨットのステイのようなものが風を切り裂いたり、深い森全体が風に揺れ、副次的に呻くような山鳴りを発したり、いわゆる、風が何かにぶち当たることでその物体固有の音を出す。時には、『口笛吹の少年』(私の作品集に収録)のように、ヨットの船尾をガードするステンレスの手すり(スターンパルピット)に穿った小さな穴に風がもぐり込み、笛のように高い吹奏音を発することもある。
風速18メートルといえば結構な強風で、陸上なら様々な雑音を聞くことになるが、洋上でこの程度の風の音を聞いたことがない。陸の人間がほとんど体験することがない風速40メートルの大型台風にもなると、風(空気)の塊同士が、洋上遥か上空でぶつかり合うゴ~~~!という腹に堪える唸りを聞くが、こんなのは7年間航海を続けて、たった一回しか経験がない。これだって、風が、別の風にぶち当たったことで発する音だ。
勿論、波が船べりにそって流れる音や大きなうねりが船体のぶち当たる音、または、セールが裏風を受けてバタバタとシバーする音、ヨットのシート(ロープ)類がブロックや船体の木部にこすれて鳴るギ、ギ、ギギギ~なんて音は聞こえるし、風はヨットそのものに当たって音を発しているから、艇上が無音というのことではない。つまり、風に逆らう時、その逆らう物固有の音を発するので、風そのものには、かなり強く吹いても音がない。(「逆らう」という言葉には自動詞性が感じられて適切ではない。日本語にピッタリ当てはまる言葉が見つからないが、あえていえば“Against”という英語が適当と思われる。この単語は、逆らうという意味もあるが、もたれ掛かるといったニュアンスもある。)
だから、セールがジャストトリムで全く抵抗なくセール上をスムーズに風が流れ、艇速とうねりの速さ、さらのに艇の長さとうねりの波長が絶妙に調和した時、ヨットは海面を滑るように走り、艇上は全くの静寂に包まれる。そんな時、ふと自分の声が本当に音として発しられているかどうか全く不安になって、しきりに意味もない絶叫を洋上に撒き散らしたものだ。今回、久し振りに大型クルーザーに乗る機会を得て、激動の中のあのえも言われぬ静謐を思い出した。
今まで、どうしてそれに気がつかなかったのだろう。不思議といえば全く不思議な話だが、私たちの周囲には常に音があり、また動くものにはそれぞれ固有の音があって当然という先入観が、ありもしない音を恰も聞こえているかのように思わせていたのに違いない。
「動中静あり」とは、ある種の極意であろうが、風には音がないという事実に気づいたことは、当たり前のことを当たり前に受け止めたということか。極意とは、当たり前に気づくということなのかも知れない。

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