3月29日(木)/快晴・強風

花に嵐とはよくいったもので、桜の満開時には、花を散らしはせぬかと気を揉ませる風が吹くものだ。今日もまさにそういう風は吹き荒れている。
また、こういう日、つまり、前線が通過中で強風が吹く日は、私の偏頭痛の日でもある。朝から、頭の中を通奏低音のような痛みが反響してとどまることがない。何をやる気力も湧かず、ただ時折頭を拳で叩いてみたり、こめかみを指で押さえてみたり、気象が安定して頭痛が去るまで無為な時間を悶々と過ごしている。
しかし、悶々と無為に、或いは、無気力に日々を過ごすのは、何も偏頭痛ばかりに起因するとは限らない。
先日、あまりの不甲斐ない自らを顧みて、一体どこで気力を置き忘れてきたのだろうと考えてみた。
あんなにも身を削り鎬(しのぎ)を削り、他と競って一歩もひけをとらず、むしろ常に勝ち組に勝ち残り、仕事に趣味に新境地を切り開いて来たではないか。その勢いをそのままに、単独、ヨットを駆って世界の海へ挑んだあの気力は、一体どこへ消えてしまったのだろう。

25年間勤務した会社を、突然たった3時間で辞め、世界の海へ想いを馳せた。毎日、寸暇を惜しんでヨットを整備し、傍ら、未知への心を練った。全ては覚悟の問題だった。最悪でも死ぬだけだ。しかも、単独だから誰をも巻き込まず、誰にも迷惑はかけないということが心の慰めだった。まあ、死ぬつもりで海へ出掛けて行くわけではなく、生きて世界の海を楽しむことが本意だから、世界中のパラダイスといわれる所を研究した。ヨーロッパに辿り着いた時を想定して、ギリシャ神話は徹底的に学んだ。

でも、不思議なことに、航海が終わった後のことは、全く考えることがなかった。
今にして思えば、航海の後に自分の人生が続くということに想いが及んでいなかったし、航海後の人生なんて、はっきりいってどうでもよかった。
講演などで航海談の締めくくりに、私はよく『ヨットを駆って世界の海へ出て行くということは、今までの人生に一区切りつけて、もう一つ別の人生を始めるということです。それほど画期的に、未知の世界で未知の自分を発見することなんです』と話す。
人の未来なんて誰にも分からない。医者に余命1年なんて宣告されても、私の知人に既に3年も生き永らえているしぶとい奴もいる。だから、航海後の人生を計画しなかったからといって、私の人生の道筋が消え果てているというものでもない。時間は着実に流れ、いつの間にか、正に老耄の世代に足を踏み入れている。そればかりか、自ら予測もしなかった物語が展開し、人の世の、或いは人生の機微に一喜一憂し、時に感じ入ることもある。

しかし、航海計画と共に、航海が終了した後をどのようなシナリオで生きて行くかを、航海に先駆けて考えていなかったという不用意が、今、この人生の無気力と不如意を象徴しているように思えてならない。若しかすると、日々の暮らしはお釣りの人生ではないのか?航海の終わりで、本当は私の人生は終わっていたのではないか?そんな風に思うと、ついつい生きる気力に下っ腹の力が入らない。
そんな無気力な私を客観的に観察してみた。
あ~でもない、こ~でもない、そんなことを常日頃ぼやいて日々を送っているのも、如何にも年寄り臭く、どうやら年寄りの習い性のようなものらしい。その証拠に、ヨットだドライブだと、結構連れ合いと若者みたいにはしゃぎ回って日々を送っているではないか。ぼやく前に、不用意な人生にも拘わらず、それなりの充実と感動を与えてくれる周囲に感謝する心を忘れてはならない。落語の『小言念仏』ではないが、ぼやきの合間に、折々、感謝の言葉を挟むことを肝に銘じておかなくてはなるまい。

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