2007年1月27日(土)/快晴・西の強風(大西)

暖冬の毎日が続いております。もう、地球温暖化云々は云い飽きましたが、かといって無視できるものではなし、また飽きたり慣れたりしてはいけないことです。車も電気もない昔の生活に戻ることは出来ないとはいえ、どこかでこの地球を食い潰す行為に歯止めをかけなくてはなりません。人類の総意を一つに纏め上げる救世主が現れないものかと待ち望んでおります。
去る1月9日(前回)の手紙に一つ書き落としたことがあります。従って、以下はその続編のようなものです。
歌人で脳神経医の上田三四二氏が、神田の古本屋で、アメリカの著名な脳外科医ワイルダー・ペンスフィールドの著書『脳と心の正体』を見つけたことをお話しました。その中に、ペンスフィールドが、「神経生理学者が、なんとかして心は脳の働き以上の何ものでもないことを証明しようと努めるのは、科学者として当然のことだ。しかし、このモノグラフをまとめるに当たって、私はどうしても心の働きを脳の仕組みで説明することは出来ないと気がついた」と書いていたとお知らせしました。
心って何だろうということは脳の専門家も私たち一般人も、等しく無関心ではいられないことです。或いは、一度もそんなことを考えたことがないという人は皆無といっていいでしょう。私が禅に深く関心を寄せたのも正にそういうことです。
参禅とは、座禅という行為を通してそうした疑問に分け入ることです。さらに、その疑義をさらに深めるために入室参禅(にっしつさんぜん)といって、師家に一対一で面談し禅問答をいたします。問答は、古くから用いられた問題集のようなものがあり、『無門関』や『碧巖録』などが有名です。『無門関』は48則あって、その41番目に『達磨安心(だるまあんじん)』という古則があります。
安心とは、波立ち騒ぐ心を沈め、心の平静を得ることです。本文を載せてみましょう。

「達磨面壁す、二祖雪に立つ。臂(ひじ)を斷っていわく、弟子心未だ安からず、乞う師安心せしめよ。磨いわく、心を将(もち)来れ、汝が爲に安ぜん。祖いわく、心を覓(もと)むるに、了(つい)に不可得。磨いわく、汝が爲に安心し竟(おわ)んぬ」

少々注釈を挟みます。面壁(めんぺき)とは、壁に正対して座禅することです。二祖とは、達磨がインドからシナまで海路を遥々やって来て禅を伝えた初祖で、その教えを受け継いだ慧可が二祖ということです。臂をたっていわくというのは、慧可の決心が堅いことを言い表しています。
面壁座禅する達磨に、慧可が、「修行を積んできたのに、私の心は未だに平静を得られません。どうしたら心安らかになれましょうか」と尋ねます。そうすると、達磨は、「不安心というその心を持ってきなさい。お前のために安心させて上げよう」といいます。慧可は、師匠の達磨に差し出すために夢中になって心を探します。そして、「くまなく探しましたけれど心が見つかりません」と答えます。達磨は、「心がなければ、不安心はあるまい。(お前の心はもう安心したよ)」と答えます。
この則に巡り会った時、私はハッとしました。心というものが、手足のように身に具わったもので、自らの自由になるものという思い込みがあったのではないか。そういう位置付けで心を捉えていると、心はいつまでも波立ったまま、仏教でいう煩悩の元の貪瞋癡(とんじんち=貪り・怒り・愚か)の三毒に毒されたままです。
話は飛びますが、前の東大寺管長の清水公照師に、私は随分可愛がっていただきました。その公照師が、ある時「命や心というもんは、自分のものでありながら自分の自由にならんもんや。それは預かり物やからだ」と仰ったことがあります。公照師のお話が先か、達磨安心の則に出会ったのが先かは定かではありませんが、どちらの場合も、撞木でど突かれたように強烈なカルチャーショックを味わい、正に眼からウロコが落ちる思いだったことを記憶しております。
心は個人の意思で造りかえることは出来ません。しかし、心に波風が立たない平静を克ちえることは出来ます。つまり、貪瞋癡を鎮めるのが修行であるということです。何かにつけて引っ掛かる突起や棘のある心を円やかにすること、或いは、心を自由にするのではなく、心から自由になること・・・お釈迦様が説かれた教えとは、つまり、仏教とはそういうことなのです。

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