2007年2月20日(火)/雨のち曇

通常、僕は人に借りた本は読まない。
僕にとって読書とはファッションと同じだ。僕は人に借りた衣服、或いは、誰かに与えられた衣服は着ない習性だ。だから、自分で選んで買った本以外は読まない。
僕の蔵書はかつては膨大だった。しかし、1995年に航海に出掛けた折、4分の3を処分し、どうしても手元に置きたい4分の1はヨットに積んだ。ヨットに積載した荷物で一番嵩張って、しかも重量があったのは僕の蔵書だった。本は、僕にとって、或る意味、僕の知的履歴だと思っている。だから、意図して手にした本は必ず手元に残す。だから、自分で選んで買った本以外は読まない。
しかし、この度、僕に読ませたいと或る人に預かったという本が手元に届いた。それは、浅倉卓弥の「四日間の奇蹟」という本だった。しかし、その本は僕のこだわりから数日間、机の上で埃を被っていた。
最近は本も高くなって、そう安易に買いあさる訳にはゆかない。さらに、僕は、気に入って買った本、従って、手元に大切に保存している本を、何度読み返しても少しも退屈したりはしない。本というものは、読む年代、読む時の環境、僕自身の気分や心に掛かっている課題などによって、その都度新たな感銘を与えてくれる。
最近は、前のこの『手紙』にも書いたように上田三四二の「うつしみ」を読んで後、やはり上田三四二の評伝「西行・実朝・良寛」を読み、増谷文雄の「業と宿業」を読み、石原慎太郎の「風についての記憶」を読み、トルーマン・カポーティの「草の竪琴」を読んだ。そして今、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んでいる。それら全ては、どれも最低5回は読み返している。
さて次は何を読もうかと逡巡している時、机の上の「四日間の奇蹟」が目についた。
文体に馴染むまでは、さしたる期待もなく活字を辿っていたと思う。ただ、脳生理学と音楽に関する知識が相当のものだと感心した。ご存知の方も多いと思うが、特定な何かを文章に書く場合、ありったけの知識を全て書いたら、その文章は薄っぺらでとても読むに堪えない。せいぜい、10の知識があれば2か3程度しか書けないものだ。だから、この見識には些か驚いた。解説で書評家が、文章から音楽が聞こえてくるような文章と書いていたが、実際、その通りだと思って読み進んだ。
面白いことに、この本のテーマは、「肉体を離れて、心は存在し得るか」ということだった。そしてそれは、やがて心とは何だろうということに展開して行く。つまり、上田三四二の「うつしみ」で、「心は脳の働き以上の何ものでもないことを証明しようと努めるのは、科学者として当然のことだ。しかし、私はどうしても心の働きを脳の仕組みで説明することは出来ないと気がついた」と述懐したアメリカの脳生理学者の言葉と重なってくる。この本を僕に読むように勧めてくれた人は、多分、僕の『手紙』を読んだのに違いない。
「四日間の奇蹟」でも、脳と心の関わりと、どうにも説明がつかない脳と心の断絶に苦悩している。
心は、多分、脳の活動なのだろう。しかし、現代の脳生理学において、脳と心が直接結びつくことはない。いや、果たして現代の脳生理学でだろうか?
脳と心の結びつきについて、人間は古代から気づいていたのだと僕は思う。恐らく、これは人類の直感なのだろう。しかし、古代でも、現代の脳生理学が突き当たっているとほとんど同質の脳と心の断絶、直接的に結びつかない底知れぬ断絶に行き当たった。何とか解明したいが乗り越えられない深淵がある。そして、その深淵を埋めようと発明されたのが宗教であり神なのではないだろうか。
思えば、文学作品にせよ評論にせよ、そのほとんどがテーマとして取り上げるのが心であり、魂や命であり、そして死だ。いいかえれば、芸術に限らず、人間は心を求め、その実態を知ろうと悩む。前の『手紙』にも書いたように『命や心というもんは、自分のものでありながら自分の自由にならんもんや。それは預かり物やからだ』と仰った東大寺の前管長、清水公照師の言葉のように、生涯をかけて命や心というテーマを中心に人間は彷徨する。そして、公照師が『預かり物』といわれる部分が正に断絶であり深淵であり、そして、それを埋めようと試みる神なるものなのかも知れない。
脳生理学者は、脳という臓器のそれぞれの部分がどういう役割を果たすかという研究を手掛けたのは、つい50年ほど前のことでしかなく、まだまだ分からないことばかりだという。しかし、僕は、どれほど現代の科学や専門的な脳生理学が進歩しても、直感的にであれ古代から模索し続けてきたこのテーマが解明されることはないのではないかと思う。人類の永遠の不知なるテーマ・・・心とは、多分そういうものなのではないのだろうか。

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